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自分の名前が無いことにはそのとき初めて気がついた。
私は名前を呼ばれたことがなかったからただわからないだけなのかもしれない。
桜咲は桜咲様と呼ばれていたけれど、私は単にお嬢様だったから。
そして名前の無い私に仮の名をくれたのがそこにいたマスターと呼ばれた人。
『琴葉。 貴女の名前はこれから暫くは琴葉ね』
【暫く】とそう言ったのはここを出してあげるという意味が含まれていたらしい。
ここを出してあげるから主に仕えて名前をもらいなさい、とその人はそう言った。
その言葉があったからこれから始まる修行にも耐えられたのかもしれない。
ーーーー時は流れ。
私は怪我が治るまで特に何もせずに療養していた。
動き回ればあの医者に何をされるかわかったものではない。
そうして動けるまでに回復した私はまたある所へと場所を移していた。
ある場所とは、島原。
その者の器量と美しさがものをいう華やかな世界。
勿論医者に断りなく出てきた。
医者と話せばお嬢様の言うゆっくり話すというものが確定してしまうから。
そんな私に行く当てなどあるはずもなく、唯一思い出すことの出来た場所がここだった。
「すみません」
入り口に掛けられた暖簾を潜る。
声を掛けて暫く、奥から一人の女性が顔を出した。
「起こしやす~! ……あら?」
「こんにちは、翠子さん」
翠子さんは私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。
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