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ばっと顔を上げてきた彼女に目の前で叫ばれて、耳がキィンとする。
「この様子ではまともに食事をとっておらなかったのだろう! なんでもよいから三食必ず食べねばいかんとあれほど」
「あーはいはいはい」
全く、帰ってくるなり口うるさいことこの上ない。
だけど、ああそうか、と澤田は思う。
やはりこちらが、自分にとっての日常だ。
「それで、一週間もどこに行ってたんだよ」
いつも言われっぱなしということもあって、ここぞとばかりに澤田が言う。
「なんで黙っていなくなったりしたんだよ。お前、俺には何でも話せとか言ってたくせに自分は何も話さないで……っ」
突然、フミキリがぼろぼろとその大きな目から涙をこぼしはじめて、澤田はぎょっとしてしまう。
「えっ、ちょ、ごめんって。俺、別に怒ってるわけじゃ」
「いや、すまぬ。違うのだ」
慌てて彼女が涙をぬぐうが、止まらない。
彼女が泣いているのを見たのは、これが初めてだ。いつもの強気な彼女からは想像がつかなくて、澤田は戸惑うばかりで何もすることができない。
こういうときは、ハンカチだろうか。
だが残念ながらハンカチなどという気のきいたものは持っていなくて、代わりに右手を差し出して言った。
「ほら、帰るぞ」
彼女はまだ涙をこぼしながらも、その手を取った。
そして二人で、カンカンとアパートの階段を上がっていく。
「本当に、何があったんだよ。お前」
手をつなぎながらも少し後ろを歩く彼女に、澤田がそっとたずねた。すると、まだ少し涙声な彼女の声が返ってくる。
「聞いてくれるか、サワダ」
「ああ」
「嫌いになったりはせんか」
「は? いや別に、ならないと思うけど」
「この浮気ものっ、などと追い出したりせんか」
「……なにしてきたんだよ、お前」
彼女の言うことは相変わらずよくわからないが、とりあえず、ここにいる。
それだけで十分だった。
2
両親がどうしているのかなど知るはずもなく、気がついたときにはすでに一人だった。
住み家はなかった。野良猫だった彼女は、寝る場所などその日によって様々。ただ食べ物は、魚屋の主人が魚をくれたり、近所でくらす女性が餌をくれたりして困ることはなかった。
これが、彼女の日常。
そんなその日暮らしな毎日を一年ほど過ごした、ある秋の日。
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