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道路の隅を歩いていた彼女は、車線を大きくはみ出してきた車にぶつかって跳ね飛ばされた。
車はそのまま走り去ってしまった。何かがぶつかったことには気づいているだろうが、まさか猫をひいたなどとは思っていなかったのかもしれない。
体中が痛くて、動けなかった。
きっとこのまま死ぬのだろうと、そう思った彼女はしかし、通りかかった一人の男性に助けられた。
佐々木藤士郎という名の、老人だった。
彼は彼女のことを、その真っ白な毛並みからユキと呼んだ。包帯の巻かれた左後ろ足の怪我がなかなか治らず、うまく歩けない彼女の世話を付きっきりでしてくれた。
藤士郎と過ごす時間は、ひどく穏やかだった。
冬になればこたつに入った彼の膝の上で丸くなり、春には桜を見に散歩へ出かけた。夏になれば、縁側で風鈴の音に耳を傾け、秋には庭のミカンの木に実がなったのをともに喜んだ。
彼は、平屋に一人暮らしだった。
その理由を、彼は絵本でも読み聞かせるかのようにこう話していた。
「わしはなあ、ユキ。ほんとうに、だめな親だったんじゃよ。教師という仕事をしていた性なのか、自分の子と他の子を無意識のうちに比べてしまっておった。口を開けば、叱ってばかりいたのじゃよ」
寂しげなその口調に、ユキは彼の膝の上で静かに耳を傾けた。
「あの頃は、よい大学へ行くならどこでも一人暮らしをさせてやるなどと言ったが、……あの子らはきっと、どうしてもこの家を出て行きたかったんじゃろうなあ」
そんな彼の妻が亡くなったのは、二年ほど前のことだったという。
妻の葬儀で、久しぶりに顔を合わせた二人の息子が、立派に成長し家庭を築いている姿を見て、彼は妻が言っていた言葉を思い出したと言った。
そんなに叱らなくたって。あの子たちはあの子たちなりにきちんと考えていますよ、と。
本当に、その通りだった。あんなに叱ってばかりいないで、もっとたくさん一緒に遊んでやればよかった。もっと褒めてやればよかった。もっと自由にさせてやればよかった。
彼はたくさんの後悔を抱えていた。
「こんなわしだから、ここからはずっと一人なのだろうと、そう思っておったのじゃが……ありがとうな、ユキ」
そう言って、彼は彼女の背をなでた。
気持ちよくて、彼女はそっと目を閉じる。
だがそんな幸せな日々は、長くは続かなかった。
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