第10章 石尊山と追分宿

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 矢崎は、エントランスホールで、稲葉と擦れ違った。昨日、愛子と並んで歩いていた背の高いハンサムな男だ。  矢崎は、思い切って声をかけた。 「あのう、以前、何処かで会いませんでしたか?」 「さあ、覚えておりませんが…すいません、私これから朝の会議があって急いでおりますので、失礼します」 と慇懃無礼(いんぎんぶれい)な態度で、足早に去って行った。  彼の後ろ姿を眺めながら、やはり、どこかで見たような気がすると感じた。  ホテルを出て駐車場に向かう途中、花壇にレモン色の花が咲いていた。一般的な夕菅(ゆうすげ)よりも、背が高くて花数が多かった。おそらく、この花が、大規模開発と自然保護で争いが起きている軽井沢において、野生種の絶滅が危ぶまれている軽井沢黄菅なのだろうと顔を寄せてじっくり観察した。  花を眺めていると、昨夜の酒席で、石墨が言っていた台詞(せりふ)を思い出した。 「花なんて種を植えれば生えるんだから、野生にこだわる自然保護団体の考えは理解できない。花壇に植えておけばいいじゃないか」  だがそれは、自然の撮影をライフワークしている矢崎にとっては、承服できない言葉だった。  矢崎は、生物多様性や生態系の大切さを力説したが、彼は、「自然保護に関する議論はまっぴらだ」と言って話題を変えて、まともに取り合わなかった。  矢崎は、朝露に濡れる軽井沢黄菅の匂いを嗅いでみた。柑橘系(かんきつけい)にも似た爽やかな香りが鼻を撫(な)でた。  ほとんどの菅(すげ)の花には芳香(ほうこう)がない。霧ヶ峰の群落が有名な日光黄菅にも香りはないが、この夕菅の仲間には香りがある。  矢崎は、周囲をキョロキョロと見回して、誰も居ないのを確認してから、一輪の花を摘んで、ポケットから押花用の大きめの手帳を取り出して、その中に挟んだ。
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