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2 はじまりの夜
診察を受け、王宮から無条件で解放された白髪のティオは、しばらく王宮の中庭にいた。
丸く縁取られた噴水の石に腰かけ、診察をしてくれた医師のことを思いかえす。
にっこりとほほえんだ顔や、いい子だね、と頭をなでてくれた手の感触。
それらは、かつての主から受けたことのないあたたかい愛情にあふれていた。
ティオは自分で頭をなでてみたが、何回やってもあの時のように嬉しくて面映ゆい、幸せな気持ちにはならない。
(あのひとは、……なんだろう)
ティオは心の中で声にする。甲高い声が耳障りだと言って、かつての主が喋るのを禁じたことをまだ、忠実に守っていた。
主はこちらから語りかけても一切の反応をせず、気に障った時だけ、暴力をふるって改めさせた。
もう誰からも殴られるのはいやなので、声をだしたくない。
黙ってさえいれば誰も気づかずに通りすぎてくれることを、ティオは学んでいた。
それなのに、あのひとは、やさしかった。
身体に悪いところがないかみてくれて、だいじょうぶだよと笑ってくれた。天使さまの力を、わけてくれた。
「あ……」
寒い季節はもう通りすぎたのに、身体がふるえる。
ここから出ていかなくてはならないのに、あのひとに会いたくてたまらなくなる。
せめてもう一度だけ、声をかけてもらうことはできないだろうか。
頭をなでて、笑って。
でも、なんて声をかければ、ふり向いてくれるだろう。
これまで、一度も主は反応してくれなかったので、その方法がわからない。
主がとても喜んでひとを迎えるときに、相手は何ていう言葉を話しただろう。
誰かが、帰ってきたとき、ただいま、と言っていたような気がする。
ティオは立ちあがり、ただいま、と声にする。
こんな、かすれたような、ささやくような声じゃだめだ。あのひとに気がついてもらえない。
ちいさすぎてもだめなんだ。おおきすぎても、甲高くてもだめ。
(……ただいま)
落ち着いて、歩きながら繰り返す。
ただいま、ただいま、ただいま。
ティオは医務室の前に立った。
まだここにいるだろうか、ふり向いてくれるだろうか。まだいたのかい、しつこいね、と詰られるだろうか。
でも。
診療中、という文字の書かれた札に気づいた。
あのひとの筆跡なのだろう。線が細くて、綺麗に整っている。
裏返すと、本日は終了致しました、と書かれていた。表になっているということは、中にいるのだろう。
その事実に勇気をもらい、ティオはそっと扉に手をかける。
……会いたいなら、これを開けて、声を出さなくちゃ。
心を整え、ふるえる手で、その扉をひらいた。
「ただいまっ」
声に、なった。
あのひとが……イグノトル医師が、なぜかもうこちらを見ていた。
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