いのちにふれる

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手術ではとりきれないところまで、がんは浸潤していた。 化学療法その他の治療がどんなにうまくいっても、残された時間がそう長くないほどに。 神様がいるのかどうかは知らない。agnosticismもatheismも関係ない。もしも神様がいるのなら、どうして、よりによって、この人なのかを聞いてみたいと思った。 これまでずっと赤ちゃんに恵まれず、それでも支えあって生きていくつもりだったふたりのうち、ひとりだけを連れていく必要がどこにあるのだろう。 生きるためにずっとたいせつにしてきたものを諦めたのに、もうあまり生きられないとはどういうことなのですか、と。 手術中、溢れた血で手袋が真っ赤に染まった。 それはぜんぜん温かくなくて、むしろ冷たくて、思わず自分の手をみつめたとき、奥さんの髪をゆっくり撫でていた旦那さんの手のことを思った。 いのちにふれたのだ。これまで誰ひとり大事にできなかった僕の手も。 術後の病状説明に立ちあって、最後に深くお辞儀をした。他にできることが何もなかったから。 顔は上げられなかった。だから僕は、旦那さんの顔を見ていない。 その日の夜、当直をしていた実習生全員が、お産に呼ばれた。僕は行きたくなかった。どうしてよりによって、いま生まれるのだろう。そんなことを思った。 でも、行きたくなかったはずの分娩室で、僕が立ち会ったふたごの赤ちゃんは、とても可愛かった。だから、ますますわからなくなった。 人は死んでしまうし、生まれてしまうのだ。 だれにも選べない。わかっている。わかっているのだけれど。 神様、もし本当にあなたがおわしますなら。生まれてくるだけではいけませんか。 それで地球がぎゅうぎゅうになって、そんなつまらないエゴで人類が滅亡してしまったとしても。 それでも構わないと思えるくらい、僕はあのいのちを救いたかったのです。 それでも人がどうしても死んでしまうなら、あるいは生まれてしまうのなら、僕たちはそこにどんな意味を持たせることができるのだろうか。 いのちはただの数字ではなく、その重みで心が軋んだことを、これからも忘れずにいたいと思う。
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