ー水底(みなぞこ)に沈めた華ー 

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「なぜ、殺すんですか?」 「お前を殺すことに対してならば、それが上からきた指令だったからだ。  掃除人が片付け者を片付けることに対してならば、今この国で一番軽いものが国民の命だからだ。  俺が人を殺すことに対してならば、それでしか俺の存在理由が証明できなかったからだ」  沙希の後ろで、鈴見綾が薙刀を地面に置き、拳銃を抜いた。  祈るように拳銃を両手でホールドし、銃口を沙希の後頭部に押し付ける。 「『人を殺してはいけない』という倫理を曲げるか、『自分が生き残りたい』という希望を曲げるかを迫られて、俺達は倫理を曲げることを選んだ。  人に忌み嫌われようとも、この手が生温かい生き血に染まろうとも、自分が死ぬことだけは嫌だった。  だからこの選択肢を受け入れた。  受け入れたからには、殺さなくてはならない。  殺せない人間は、この選択肢を取ってはならない。  この選択肢を選んだ時点で、逃げることは許されない」  今から人を殺すというのに、掃除人二人の瞳は静かだった。  だが、人を殺すことに対する、一種の諦観はそこには感じられない。  静かな覚悟、とでも言うべきものが、二人の瞳には湛えられている。 「だから俺には、お前の潔さは、逃げにしか見えない」 「……私に逃げられても、困るくせに」  その覚悟に返されたのは、苦笑だった。  不敬だと思えるほどに、軽く儚いものだった。 「未来が視えると、諦めるようにしかならなくなるんですよ」  そして、少女はそんなことを口にする。  よりにもよって、『未来は変わらない』と冷めた考え方をしていた少年の根底を、ガラリと変えた少女が。 「未来は、変わらない」  沙希の言葉に温度がないと感じたのは、初めてだった。  その温度のない言葉が久那の胸に落ちて、胸の中に渦巻いていたものを全て吸い取っていく。 「……そうか」  遠宮龍樹の答えはそれだけだった。  鈴見綾に軽く手を振る遠宮龍樹を見た沙希は、瞳を閉じると力のない笑みを唇に刻む。  そして拳銃のトリガーにかけられた鈴見綾の指に、躊躇いなく力が込められた。 「沙希の、馬鹿」  夕焼けよりも朱(あか)い筋が宙を舞う。
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