ー水底(みなぞこ)に沈めた華ー 

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「……だれ?」  でも、私の記憶の中に、そんな人はいない。 「……そう。なら、いいの」  女の人は瞳を伏せると、初めて会話らしい言葉を口にした。  その唇には儚げな微笑みが浮いていて、まるで妖精が姿を現したかのように思えた。  女の人は胸元に飾られた彼岸花を引き抜くと、サイドテーブルの上に置かれた花瓶にそっと差し入れた。  父や母や妹と名乗る人が持ってきた花の中に一輪、鮮烈な色彩が加えられる。 「お大事に」  女の人は音も立てずに、白いカーテンの向こうに消えていった。  見慣れない真っ白な部屋に、私だけが取り残される。 「……はせ、ひさな……」  天井を見つめて、私はもう一度その名前を唇に乗せた。  なぜだろう。  女の人との会話の中で、その名前だけがポツリと胸に残ったような気がする。  でも、そんな感触もすぐに消えてしまった。  感触を与えてくれた名前そのものも、砂にうずもれるビー玉のように、記憶の海に沈んでいく。  まるで私の知らない私が『忘れなさい』と囁いているかのように。  今の私には、それに抗う気力さえない。 「だれ……だっけ………?」  数十秒後にこぼれた声は、忘れてしまった名前に対する問いかけになっていた。 「何という……名前だっけ……?」  誰に向けても答えが返ってこない問いを口にしながら、私の意識は闇へ埋もれていく。  そんな私の代わりに涙が浮き上がって、頬を伝っていくのが分かった。  私は……何が悲しいんだろう。  何か、大切なことを忘れてしまったような気がする。  心の奥に大切にしまい込んだものが、サラサラと形を失って消えていく音が聞こえる。  そんなことを思っている間に、私の意識は闇へ消えた。  悲しいという感情を引きつれて。  次に目覚める時には、この悲しさもあの女の人のことも、闇の中に忘れ去っていくのだろうという、予感だけを残しながら。
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