ー水底(みなぞこ)に沈めた華ー 

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 龍樹は最後の防壁をカードキーで開き、中へ足を踏み入れた。  国家人口管理局『リコリス』本庁、その最奥にある部屋は、まるで水底にいるかのように、青白いユラユラと揺れる光で満たされていた。 「赤椿(あかつばき)、次の指令書ならそこです」  入口に背を向け、その光の中に指を遊ばせていた沙烏(さう)が、感情のない声で告げる。  視線は五台のモニターに据えられたまま、龍樹の方へ向けられもしない。 「長谷久那」  その背に向かって、龍樹は半年ぶりに彼の真名を口にした。 「赤谷沙希が、目を覚ました」  その声に、一瞬だけ、沙烏の指が止まった。  だがその指は、静寂を作り出すよりも早く動きを再開する。 「監視は怠っていません。見ていたから知っています」  この半年で伸びた髪はうなじで一つにまとめられ、背中にたらされている。  灰色のトレンチコートと、茶がかった黒髪が、あいまいなコントラストを生み出す中、左右の腕に付けられた腕章と、トレンチコートに通されたベルトだけが、鮮烈な色を宿していた。  その色は、深紅。  『黒』を纏う掃除人に対し、『リコリス』の情報官は『赤』を纏う。 「記憶の欠落と未来視の喪失……お前が視た通りだったな」 「あの勢いで脳に衝撃を加えれば、後遺症が残ることは免れません。  未来視は繊細なものですから、壊れるならまず、未来視か記憶だと思っていましたよ。  目覚める時期までは分かりませんでしたが」 「上の判断では、通常の生活に戻して問題なしということだ。  無論、監視は付くが」 「上、というよりも、赤椿の判断なのでは?」  そして黒を纏う掃除人は赤にまつわる通り名がつけられ、赤を纏う情報官には黒にまつわる通り名がつけられる。  位官が上がれば上がるほど、より直接的な字を用いて。  『赤』というのは実動部隊最強上位五名のみが使う文字であり、『烏』というのは事務方の下っ端に当てられる文字だ。  下っ端といえども通り名がついているということは、全体で見れば上位三分の一には入っているということだが、実質戦わせれば敵う者はないと言われる『赤』の通り名を持つ龍樹から見れば、沙烏はかなり格下の人間だ。 「……お前の通り名が沙黒(さこく)になるのも、時間の問題なんだろうな」
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