1人が本棚に入れています
本棚に追加
玄関のチャイムが鳴った。
倫子(のりこ)は、
一番苦手とする数学の宿題をやっていたところを邪魔されたので、
少し不機嫌にシャーペンを置き、時計を見た。
午後8時を少し回ったところだ。
高校生でありながら、
通学のためアパートで独り暮らしをする倫子は、
父親が使い古したパンツを母親から渡されていて、用心の為、
「いつもベランダに干しておきなさいね」
と言われているのだが、
その柄があまりにも派手で部屋の美観を損ねるため、
まだ一度もタンスから出していない。
父親からも、いざという時のために、
バットをプレゼントされたが、
一撃で相手を倒す方法をまだ教わっていないので、
これも押入れにしまったままだ。
しかし、もちろん倫子に警戒心がないわけではない。
普通独り暮らしの女性なら誰でもそうするように、
ドアには必ずチェーンを掛け、
たとえ昼間でも、チャイムが鳴ったからといって、
相手をちゃんと確認するまでは、ドアを開けることはない。
ただ倫子の場合、普通の人と少し違うのは、
ドアの隙間にほんの少し集中し、
そこから僅かに流れ込む訪問者の匂いを嗅ぎわけるだけで、
顔見知りかどうか、即座に判別することができる。
それだけではない。
どこかの国では、
患者の体臭を嗅ぐだけで、
患者の病気を診断出来る医者がいるらしいが、
倫子の場合、その匂いだけで、
ドアの向こうの訪問者の職業から精神状態まで、
嗅ぎ分けてしまう。
春が香るすきま風に混じって、
うっすらと汗ばむ若い男の匂いを、倫子は感じ取っていた。
「相原さん、いらっしゃいませんか?」
「はーい!どちら様ですか?」
返事をしながら、
倫子は目の前に、
ある風景を思い浮かべていた。
それは小学生の時、
社会科見学で丸ノ内の新聞社に行ったときの風景だった。
外に立つ若い男は新聞記者で、
しかも赤鉛筆の匂いが混じっていることから、
書いた原稿をいつも手直しされる新米記者であると、
倫子は確信した。
最初のコメントを投稿しよう!