【第4話】恵美子の匂い

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東京と横浜を結ぶ電車の、 丁度中間の日吉という駅から、 なだらかな坂を登って二十分の所に、 宇崎の住む団地があった。 高台の土地には三十棟程の建物が点在していて、 何度か壁を塗り替えているのだろう、 その古さがうかがえる。 宇崎と倫子は、団地の入口にあたる道に立っていた。 「ここに恵美子が倒れていた・・・」 小雨に煙る、夕方だった。 駅に下る坂の途中に小さな豆腐屋があって、 久し振りに早く帰ってきた宇崎の為に、 好物の豆腐を買いに行った帰りの出来事だった。 ビールを飲みながら、 ナイターでくつろぐ部屋の窓の外から、 ドスンという鈍い音が聞こえた。 宇崎はいやな予感がしたが、 振り払って体を起こし、 部屋の窓に立って真下の道路を見下ろした。 傘と人影は見えたが、 なにか行動を起こすには充分な時間が経っていないらしく、 みんなただ茫然と立ち尽くし、 何かを見つめている。 宇崎は人だかりの中から恵美子の姿を探した。 目を凝らし、 一人ずつ何度も確認したが、 見当たらない。 宇崎は、 主婦達が見下ろす視線の先を見た。 道の隅に、 体をくの字に曲げて倒れているのは、 恵美子によく似た女性だった。 脱げかかったサンダルは、 恵美子が履き慣らしたサンダルとよく似ていた。 白地に水玉のワンピースは、 さっき玄関を出て行く時に見かけた 恵美子のワンピースによく似ていたし、 髪型も身体つきも顔立ちも恵美子によく似ていた。 しかし宇崎は信じなかった。 激しい鼓動と全身の震えで、 何度も何度も踏み外しながら階段を駆け降りた。 泥にまみれて道端に横たわる女性の横に立ち、 その顔が恵美子そっくりだとわかっても、 しばらくすれば背中をポンと叩き 「どうしたの、あなた?」 と、心配そうに自分の顔を覗き込む恵美子がいるような気がして、 宇崎は振り向いた。 しかし、 駆け寄る野次馬達の中から 宇崎はとうとう恵美子の姿を見つけることができなかった。 長い時間をかけて諦め、 長い時間をかけてゆっくり向き直り、 そこに横たわる女性が、 久し振りの早い帰宅に顔一杯ほころばせ、 はしゃいだ声で 「いってきます!」 と買い物に出た、 最愛の妻恵美子だと確認したとき、 宇崎は言葉にならない叫び声を口にして、 その場に泣き崩れた。
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