【第4話】恵美子の匂い

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「・・・即死だったんですか?」 突然宇崎が尋ねてきた昨日と同じ、 苦い涙の匂いがしたので、 倫子は顔を向けず、 静かに尋ねた。 「うん。 苦しまずに死んだのが、 せめてもの救いだ・・・」 「目撃者は?」 「その場に五人ぐらい居たけど、 夕方だったからね。 雨も降っていたし、 誰もハッキリと車を見ていないんだ。 ブレーキも踏まずに走り去ったんだから、 無理もないけどね」 「警察は?」 「捜査官が来るのに、 時間がかかってね。 そのうち、 雨が土砂降りになって、 証拠がみんな流れてしまった・・・」 交通事故とはいっても轢き逃げで、 しかも被害者が死亡しているのだから、 重大犯罪である。 一時は地元の警察も 総力を結集して犯人の割り出しに努めたが、 とうとう確かな証拠も見つからず、 「捜査は引き続き行います」 と言いながら、 事故現場に看板を立て、 新たな目撃者の名乗りを待つだけのものだった。 「・・・人はどうして 見えるものだけに頼ろうとするのかしら? 目が持つ能力なんてたかが知れてるのに・・・」 一点を見つめ、 僅かに眉間に皺を寄せ、 何かを憂う倫子の美しさは夕映えに眩しくて、 とても高校生とは信じられず、 宇崎はその時、 確かに人間の目の能力を疑った。 「昔読んだ本の中に書いてあったんだけど、 コーヒーの匂いの正体を探るために、 一生懸命分析した人がいたんですって。 なかなか見つからなかったんだけど、 高性能の分析装置で やっとピラジンという物質をみつけて。 でも、 ピラジンがコーヒーの中に含まれる濃度は 百億分の一だったの。 たった百億分の一の匂いを 私達はいつも嗅ぎ分けているんですって。 例えば百億分の一ミリの物を 目は見分けられることができないでしょ。 百億人のウィリーの中から、 たった一人のウィリーを捜し出すなんて、 一生かかってもできないでしょう」 関東スポーツの記者という職業柄、 芸能界には精通しているが、 ウィリーというのがタレントなのか、 それともロックバンドの名前なのか、 宇崎には見当もつかなかったが、 とにかく 「百億分の一」 という数に感心し、 倫子の話に頷きながら、 改めて自分の鼻を見下ろした。
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