【第5話】チャーハンの匂い

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人間の五感の中で、 嗅覚ほど科学的に解明されていないものはない。 だから視覚の写真やビデオ、 聴覚のテープやCDのように、 嗅覚を記録したり再生したりするメカニズムも、 まだ登場していない。 又、その表現も実に曖昧で、 トイレの悪臭もドブ川も「臭い」であり、 花の香りも潮風も「いい匂い」ですませてしまう。 確かに朱塗りの器と信号の止まれを、 どちらも「赤」と言ってしまうことはあるが、 「臭い」と「いい匂い」だけで 身近な香りを全て表現してしまうのは、 あまりにも乱暴だ。 ただ、曖昧だからこそ、 許されていることもある。 例えば出張帰り。 夫は三日ぶりに我が家に帰宅したが、 ドアを開けたとたん、 靴下のむれた匂いが鼻を突く。 「臭い!」 空腹の胃は思わずムカついて、 吐き気をもよおす。 妻はきっと、 何日も洗濯物を溜め込んでいるにちがいない。 心は妻の怠慢をなじり、 今日こそは頭ごなしに叱りつけ、 それでも分からなければ、 離婚届をつきつけてやると、 勇んで台所の妻に歩み寄る。 「あら、お帰りなさい。早かったのね」 ふりかえる妻の手元では、 なんと好物の納豆が練られているではないか。 夫は匂いの元が納豆だとわかったとたん、 胃は食欲を訴え、 着替えももどかしく食卓につく。 細かく刻んだ葱に卵を落とし、 海苔までまぶされた納豆を差し出されれば、 その妻をめとった自分を、 世界一の果報者と自画自賛するにちがいない。
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