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人間の五感の中で、
嗅覚ほど科学的に解明されていないものはない。
だから視覚の写真やビデオ、
聴覚のテープやCDのように、
嗅覚を記録したり再生したりするメカニズムも、
まだ登場していない。
又、その表現も実に曖昧で、
トイレの悪臭もドブ川も「臭い」であり、
花の香りも潮風も「いい匂い」ですませてしまう。
確かに朱塗りの器と信号の止まれを、
どちらも「赤」と言ってしまうことはあるが、
「臭い」と「いい匂い」だけで
身近な香りを全て表現してしまうのは、
あまりにも乱暴だ。
ただ、曖昧だからこそ、
許されていることもある。
例えば出張帰り。
夫は三日ぶりに我が家に帰宅したが、
ドアを開けたとたん、
靴下のむれた匂いが鼻を突く。
「臭い!」
空腹の胃は思わずムカついて、
吐き気をもよおす。
妻はきっと、
何日も洗濯物を溜め込んでいるにちがいない。
心は妻の怠慢をなじり、
今日こそは頭ごなしに叱りつけ、
それでも分からなければ、
離婚届をつきつけてやると、
勇んで台所の妻に歩み寄る。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
ふりかえる妻の手元では、
なんと好物の納豆が練られているではないか。
夫は匂いの元が納豆だとわかったとたん、
胃は食欲を訴え、
着替えももどかしく食卓につく。
細かく刻んだ葱に卵を落とし、
海苔までまぶされた納豆を差し出されれば、
その妻をめとった自分を、
世界一の果報者と自画自賛するにちがいない。
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