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「そうね。あの人が三十五ミリのカラーを撮ることなんて、
仕事ではなかったかもしれない」
玲子さんの言うとおりで、長塚了一の撮る写真は
同じ三十五ミリでもモノクロしかないと思っていた。
まるで一昔前のジャーナリストみたいに撮る。
そんな風に揶揄された。
美術館に収蔵される価値はない。
ただの大量生産写真。
モノクロでなかったら、ただのスナップじゃないか。
彼を嫌う評論家は、みな口をそろえて言ったものだ。
僕はフィルムを手にした。
珍しいものではない。
町のカメラ屋で簡単に手に入る、それこそスナップ用のフィルム。
これでいったい、なにを撮っていたのだろう。
その問いに答えるみたいに、玲子さんは僕が取り出したフィルムを
いとおしげに見つめたまま、言った。
「家ではね、コンパクトカメラをポケットに入れていて、
なんでもないものを撮っていたの」
「コンパクトカメラで?」
「そう。どこでも売っている、安いものよ。
デジタルでないところが、あの人らしいわね。
それで朝起きて、顔を洗って、歯をみがくように
そのあたりのものを撮ったの。
そうね。わたしも入っているかもしれない。
飼っていた猫も」
フィルムと彼女を交互に見た。
とまどっていたのだ。
あまりに自分の知る長塚了一と違い過ぎて。
「不思議かしら。でも、ほんとうなの。
ああ、そうだわ。これを言ったら信じてもらえるかな。
フィルムは現像されることはなかった」
「現像していない?」
「ええ。ほとんどが現像されないまま、処分されているの。
たまってきたら、捨ててしまう。
もしかしたらこの箱分たまったら、
捨てていたのかもしれない」
信じるどころか、僕は混乱していた。
信じてもらえるだろうという
彼女の言葉の真意もわからなかった。
先生は大量に撮ることも、芸術活動だとしていた。
だから、家でも撮っていることは想像できたけれども、
それがカラーのスナップで、
それも一定量撮ったら、処分していて……。
僕は長塚先生の後半の仕事を、すべて見てきている。
彼の作品の現像、プリントはすべて僕の手によるものだ。
はじめのころはともかく、ここ数年は彼の欲しいものが
なにも言わなくてもわかったし、彼も注文をしなかった。
僕は彼の手や目、脳の一部だとすら、思っていた。
生活のことはともかく、芸術活動においては
知らないことなどないと思っていたのだ。
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