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「なんにも知らないってさ。無邪気ってさ。暴力だって、知っているか」
片頬だけ上げて彼は笑う。
そして、さっき彼がぶつけて痛む僕の頬を、
やんわり撫でた。
「痛むか」
「いえ。たいしたことは」
答えと同時に、彼の唇がその箇所を撫でていた。
動かなかったのは同意じゃない。
何が起きているのか、脳が処理しきれていないのだ。
だがそれを、同意と受け取ったか、
隙と思ったか、藤井さんは舌でねぶり、
気がつくまもなく唇を貪られていたのだった。
舌が口の中にまで押し入り、
ジーパンのファスナーが降ろされた瞬間、
ようやく覚醒する。
頭を振って彼から逃れようとした。
「こういうの、先生とない?」
藤井さんともみ合う形で、床に崩れる。
体重をかけられ、見下ろされたとたんに、恐怖が襲う。
生物的な恐怖。
無防備で命をすべて預けているかのような、感覚。
その下から見上げた視点に、僕は玲子さんを重ねた。
葬儀の日。
彼女はきっと、僕が怖かったのではないか。
振り払えばいつだって、やめるつもりでいたけれども、
動けなかっただけではないか。
彼はジーンズの隙間に指を差し入れて
「ないみたいだな」と苦笑して、体を起こした。
「まあ、だから、まわりが妙な噂をたてているのを聞いてさ。
それなら仕方ないさって思った。
お前と先生ができてるんなら、仕方ないし。それに」
藤井さんは「あー、つまんねーな」とつぶやいて、
自分のポートフォリオを部屋の隅へと投げた。
「なんでお前、先生のプリンターなんて、
十年もやってたんだよ」
「それは長塚先生の作品が好きで……」
「まあ、なあ。そこが俺とお前の違いなんだろうけどさ」
「違い……」
「俺は自分が前に出ることしか、考えてねえよ。
先生は踏み台のひとつと思ってたしさ」
「踏み台……」
「関係あったのは、俺だしさ」
「え」
「まじで、知らねえってか。
だからさ、先生、ゲイってか、両刀なのかな。
よくわかんねえけど。どっちみち誘ったの、俺だけどさ」
「怒るなら怒れよ」
そう言われたけど、いったいなにに怒ればいいのかも、
わからない。
ただ、玲子さんと先生がセックスレスだという
理由がわかっただけだ。
僕は混乱に頭を振る。
「ほら、これ」
藤井さんはもうひとつ、ファイルを放ってきた。
めくると、カラーのおそらくはポジフィルムで
撮ったのだろう写真が入っていた。
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