第2話

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あがっていいのか迷っていると 「さっさと来いよ」と藤井さんが怒鳴った。 彼の転がっていた革靴を並べ、 その横に白いスニーカーを脱いだ。 その白さが妙に浮いている。 台所の床ですでに藤井さんは飲んでいた。 冷蔵庫の中がほとんどビールの缶だったのは見えたが、 床にもケースで積み上げられている。 冷えた缶を受け取って、あたりを見渡した。 窓の外は隣のビルの壁だ。 むきだしの排水管にゴキブリが這っている。 それを見た藤井さんは容赦なく殺虫剤を吹きかけた。 ゴキブリはシンクに転げ落ち、 藤井さんはそれをそのまま排水に流した。 「落ち着かねえな。こっち、こい。 冷えたやつを何本かお前、持てよ」 藤井さんはケースごと持ち、 隣の部屋との境になっていた襖を足で開けた。 そこはもとは和室だったのだろうがフローリングの床で、 ようやく仕事場らしい雰囲気の部屋になっていた。 壁一面の天井まである棚には大量のファイルや ストレッジボックスが並べられてある。 パソコンと大きな横長の机。 機材のボックスや、三脚。床には写真集や雑誌の山。 蛍光灯がつくと、ものさみしさは薄れた。 そこでしばらく黙って藤井さんと飲んだ。 彼ははやいペースで。 僕は少しずつ。 かなりの頻度で近くの駅から響いてきた電車の音が なくなり静かになったころ、 なんとなく気づまりで 「電車、終わりましたね」と声をかけた。 藤井さんはそれに答えず、唐突に 「ここの隣さあ。昨日、引っ越してったんだ」 と言った。 「そうなんですか」 「お前、越してこいよ」 ほんとうに唐突な人だなと黙って笑うと 「ばか。本気で言ってんだ」と言う。 「どうしてです」 「ここは場所のわりに安い。けど、名刺の住所としては立派だろ」 「たしかにそうですけど」 「それにさ。風呂場を暗室にすると、風呂に入れない。 お前が越してきたら、そっちの風呂に入れる」 「風呂場?」 思わず僕が訊き返したのは、 暗室を別に藤井さんが借りていたことを知っていたからだ。 彼はバツが悪そうに 「ああ、もうひとつのスタジオは効率が悪くて閉めた」 と言って、目をそらした。 「プリンターの話は冗談ですか」と言ったのは、 責めるつもりではなかったが、非難がましい声になった。 けれど彼は気にした様子もなく 「お前がやってくれたら、いつだって暗室を借りるって」と、 いつものにやにや笑いをした。
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