第2話

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乾いた布巾で本を拭った。 このまま帰ってしまおうかと思いつつも、動けない。 なにをやっても僕は藤井さんを怒らせてしまうらしい。 それはアシスタントをふたりでやっていた 短い期間もそうだった。 質問はいつも彼を怒らせたから、 仕事についてすら彼に訊くことができなかった。 それで直接、先生にうかがうと、 それもまた、彼の気に入らないようだった。 「アシスタントはひとりでいいからな」  彼が独立するときに、僕に吐き捨てるように言った。 彼の前途のほうが明るいというのに なぜ、つっかかるみたいに言うのか。 彼の席を奪ったのではないかという 苦い思いが常にあったのは、 出ていく彼の悔しげな表情のせいだったかもしれない。 彼のほうがいつでも先を行き、 悔しいのは僕のほうであるはずなのに。 排水口からゴキブリが出てきた。 彼の流した虫か、別の虫なのか。 よたよたと懸命に這いあがってくる。 見ていて気持ちいいものではない。 でも、藤井さんみたいに、水を流す気にはなれなかった。 部屋に戻ると、彼はファイルが詰まった棚の前に立っていた。 帰ればいいのにその背中を見ていたら、 帰ることができないのだった。 そうしてきっと、また彼をいやな気持にさせるのだろう。 水にふやけた本を床に置くと、今度こそ帰ろうと思った。 「悪かったな」 「え」 「ほっぺた」 「ああ」 言われて頬骨あたりが痛むのを思い出した。 彼の肘に殴られたのだ。 「冷やしとけよ。明日、腫れる」 「はい」 返事をすると彼は目の前に、ファイルを差し出してきた。 受け取ってめくると、 彼のポートフォリオだということがわかった。 藤井さんの作品は先生のところにいたときに、 すこしだけ見たことがある。 クオリティの高いきれいな写真だ。 グレーの階調が緻密だった。 その写真群を見ていると、風景に見覚えがあった。 「これ、もしかして<ボーダー>の場所と同じですか」 質問したにもかかわらず、藤井さんは素直にうなずいた。 ゆっくりとめくった。 先生の風景とまるで違う。 先生の撮る写真は荒れ地に立って 風を受けている印象がある。 その場の風や雑音まで感じ取れる。 それはどんな土地へ行ってもそうだ。 けれど、藤井さんの写真はきれいだ。 すっきりしていて、どんなごたごたしたところでも、 整然として見える。 「つまらんだろう。お前から見たら」 それにうなずくことはできなかったが、
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