第1話

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 かぐや君が出ていった部屋に、恐ろしく間抜けな音が響いた。腹の虫の鳴いた音だ。  くそ、と行く宛の不明確な罵倒を吐き、俺は頭を掻きむしる。頭皮に痛みを覚えるくらいに。あんまりやったら禿げそうだからやめた。 ーー飯食ったら。 ーーもう一度、粘ってみよう。  そう決意してはみるもの、陰鬱な気持ちは滞ったままだ。何とかしたくて、がらりんとした空間にようやく鞄を放り出してから、回れ右して表に出た。  扉は開けたまま、手摺に凭れて眼下を見下ろす。  捉えたのはよれたコートのサラリーマンの姿だけで、どこに目を凝らしてもかぐや君の姿は見えなかった。  見上げると、広がる夜空は先程と全く変わらないようでいてーー月光だけは、その鋭さを増したようだった。  考える。かぐや君がおかしくなった時のことを。  彼が初めて泣いたのは、五日前の夕食時。向かい合って彼の作った天ぷらそばを啜っていたら、突然ぼろりと涙を落とした。  大粒の雫が飴色の汁に染み込む、その様を目撃した俺以上に、かぐや君は動揺した。 『えっうそ! ど、どうしたかぐや君!』 『わわわわわわわわわわわかんねえよ!』  吃りの世界記録を残せそうな勢いで叫んだかと思うと、投げ捨てるような勢いで器を置き残し、けたたましい音をたててトイレに飛び込んだ。  当然ながら彼の去った後には盛大に汁が零れていて、それなりに泡食っていた俺は、ティッシュを大量消費してそれを片した。幾度もトイレの方を伺いながら。  鰹出汁の匂い漂う室内にしばらくしてから戻った彼は、すっかり意気消沈、というか絶望感さえ漂わせていた。  ああ、分かったんだな、そう思った。けどその時は流石に声をかけるのが躊躇われて、互いに無言のままだった。  いや、違う。  ただ一言、謝られた。今日のように。俺はいいよいいよ、なんて軽く流したんだっけ。  それからもそういうことが、何度も起こるとは知らずに。 「わっかんねえなぁ……」  俺はがっくりと脱力し、午後8時の街並みに視線を投げた。今日何度目かも分からないため息が、澄んだ夜の気と混じり合う。  俺の言動に理由があるのなら、何としても聞き出さないと、と思う。無責任かもしれないが、なにしろ自覚がないのだ。  だが、自分の関しないところに原因があるのならーーこうして悩むこと自体、無駄で、ともすればお節介かも知れない。
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