296人が本棚に入れています
本棚に追加
かぐや君が出ていった部屋に、恐ろしく間抜けな音が響いた。腹の虫の鳴いた音だ。
くそ、と行く宛の不明確な罵倒を吐き、俺は頭を掻きむしる。頭皮に痛みを覚えるくらいに。あんまりやったら禿げそうだからやめた。
ーー飯食ったら。
ーーもう一度、粘ってみよう。
そう決意してはみるもの、陰鬱な気持ちは滞ったままだ。何とかしたくて、がらりんとした空間にようやく鞄を放り出してから、回れ右して表に出た。
扉は開けたまま、手摺に凭れて眼下を見下ろす。
捉えたのはよれたコートのサラリーマンの姿だけで、どこに目を凝らしてもかぐや君の姿は見えなかった。
見上げると、広がる夜空は先程と全く変わらないようでいてーー月光だけは、その鋭さを増したようだった。
考える。かぐや君がおかしくなった時のことを。
彼が初めて泣いたのは、五日前の夕食時。向かい合って彼の作った天ぷらそばを啜っていたら、突然ぼろりと涙を落とした。
大粒の雫が飴色の汁に染み込む、その様を目撃した俺以上に、かぐや君は動揺した。
『えっうそ! ど、どうしたかぐや君!』
『わわわわわわわわわわわかんねえよ!』
吃りの世界記録を残せそうな勢いで叫んだかと思うと、投げ捨てるような勢いで器を置き残し、けたたましい音をたててトイレに飛び込んだ。
当然ながら彼の去った後には盛大に汁が零れていて、それなりに泡食っていた俺は、ティッシュを大量消費してそれを片した。幾度もトイレの方を伺いながら。
鰹出汁の匂い漂う室内にしばらくしてから戻った彼は、すっかり意気消沈、というか絶望感さえ漂わせていた。
ああ、分かったんだな、そう思った。けどその時は流石に声をかけるのが躊躇われて、互いに無言のままだった。
いや、違う。
ただ一言、謝られた。今日のように。俺はいいよいいよ、なんて軽く流したんだっけ。
それからもそういうことが、何度も起こるとは知らずに。
「わっかんねえなぁ……」
俺はがっくりと脱力し、午後8時の街並みに視線を投げた。今日何度目かも分からないため息が、澄んだ夜の気と混じり合う。
俺の言動に理由があるのなら、何としても聞き出さないと、と思う。無責任かもしれないが、なにしろ自覚がないのだ。
だが、自分の関しないところに原因があるのならーーこうして悩むこと自体、無駄で、ともすればお節介かも知れない。
最初のコメントを投稿しよう!