第1話

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 加藤はなかば放心状態のまま、矛盾するようだが憤然とリビングを横切り、カーテンを勢いよく開けた。めっきり明かりの少なくなった深夜の夜景が見えた。明かりの消えた部屋で人が眠っているのか、死んでいるのか、ここからでは分かるはずもなかった。電話の女が誰なのかも分からない。 「ベランダに出てください」 「君は僕がここにいるのが見えてるの?」 まるで女に操られるように足は自然とベランダに向かう。 「洋介さん、私が見えるでしょう?」 加藤は向かいのマンションに女の姿を探した。カーテンが強風にあおられ、バタバタと音をたてているので、大きな声を出す。 「いや、見えない」 「お願いです。私を見つけてください。私はここにいます」 加藤は目をこらして暗闇に女の姿を探した。少しずつ目が慣れてくると、向かいのマンションの屋上の手すりに捕まった人々の姿が見えてきた。皆、地面をのぞきこむように見ている。 「屋上に人がたくさん見えるよ。君はそこにいるんだね?」 「はい。私はここにいます。今洋介さんに手を振りますね」 加藤の目が女を捉えた。右手をあげて大きく手をふる白いワンピースの女。それでも彼女が誰なのか加藤にはまだ分からない。 「嬉しい。私は洋介さんに看取られて死ぬんだわ」 そう言って女は空中に身を投げた。安っぽいサスペンスドラマのマネキンみたいに。 「洋介さん、私が誰か思い出しました?」 加藤の感情は麻痺していた。空中に身を投げた女と会話を続けていることに怒りも戸惑いも恐怖もなかった。ただ知らない女を哀れに思った。 「ああ、君が誰なのか僕はようやく思い出したよ」 「ありがとう」 彼女は最後にそう言ってから地面に激突した。 彼女を皮切りに、屋上の手すりにこわごわ捕まっていた人々が次々に飛び降りはじめた。
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