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しかし、これでも一家三人が暮らすには最善の物件だった。元々は取り壊しが決まっていた物件を、捨て値で貸してくれた不動産屋がいた。
以前住んでいた家と土地の売却、新居の用意のために不動産屋を駆け回った際、一つだけびっくりするほど安い貸し家を見つけた。
これほど運の良い物件に巡り会えたことを神に感謝したぐらいだ。
そんなことを思いながら慎重に扉を閉める彼の背中を、亮の家と斜向かいに位置する邸宅の小窓から見つめる視線があることに、亮が気付くはずもなかった。
「――おはようございます。お兄様」
「ああ、おはよう陽香(はるか)」
時刻は明朝六時四〇分になろうかという時間。亮が左手にペンを持ち、丁寧な文字でノートをまとめていると、寝室から妹の陽香が姿を見せた。
「まだ学校にいくには早い時間じゃないかな?」
「今日はお兄様と一緒に朝食を作らせて頂きたくて、頑張って早起きしてみました」
口元に手を当てて陽香が上品に微笑んだ。
「陽香は身体が弱いんだから、無理しなくていいんだよ?」
「ご心配くださりありがとうございますお兄様。でも、陽香は少しでもお兄様のお力になりたいのです。――それに、お兄様のお身体だって」
「陽香。俺は大丈夫だよ。陽香は優しくて本当にいい娘だね。せっかくだし、朝食の仕上げを手伝って貰おうかな」
陽香の言葉を遮るように亮が口を挟んだ。
亮の言葉はにこやかな表情から発せられたものだったが、同時にどこかそれ以上何も言わせぬ迫力のようなものを含んでいた。
亮のことを敬愛し、幼い頃から常に誰よりも観察し続けた陽香は亮の気持ちを汲み取りそれ以上反抗することはなく「はい」とにこやかに頷いて亮の手伝いを始めた。
といっても、手伝って貰うことはほとんどない。
渡辺家の朝食は、質素だった。
バーゲンで勝ち取ってきた卵とミルク、そして砂糖をといたつけたれに、近所のパン屋から無料で分けて頂いた食パンの耳を付けた後、フレンチトーストのようにフライパンで焼いたメニューが一品。
あとは亮がバイトしているオーナー店のコンビニエンスストアから頂いてきた廃棄弁当やおかず。
これが渡辺家の平凡な朝食であった。
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