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「……用件はなんだ?」
「人間の本質を理解しましたが、聞きますか?」
「……興味ない」
「そうですか」と、前川が呟いた。きっと心の中では、嘲笑っているに違いない。
「ところで谷村様は、ストックホルム症候群というのをご存知ですか?」
「それが何なんだよ?」
先の見えない内容に、苛立ちを含んだ口調で訊くと、前川は話を続けた。
「犯人と人質が閉鎖空間で長時間、非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を訊くと、それに同情などをして人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。特別な依存感情を抱くことを、ストックホルム症候群といいます。大雑把に説明しましたが、これで十分でしょう」
「なにが十分なんだよ? どうして俺に教えたんだ?」
遼平には前川の意図が分からなかった。
「覚えておいても損はないと思いますよ。無知とは恐ろしいですからね。それで
は失礼します。実験に協力していただき、ありがとうございました」
一方的に通話を終えようとしている前川に「ちょっと待て」と声を張り上げた。
「どうなされましたか?」
「……もし警察に通報したらどうするんだ?」
給与を支払われてなければ、前川の金も奪っていない。警察に通報しても、自分が罪に問われるとは思えなかった。
不意に電話の向こうから、溜息が聞こえてきた。
「警察など怖くありません。それに監視カメラには、谷村様が綾瀬様の頭部に銃口を突き立て、発砲している場面も録画されています。それでも通報しますか?」
「お前に脅迫されたやったって証言するからな」
「それで谷村様が罪に問われないのなら、冤罪という言葉が存在しませんよ。それに自分の意思で被験者になり、実験に参加していたというのに、責任転嫁ですか?呆れるほど愚かですね。先程も言いましたが、警察など怖くありません。ですから通報は、ご自由にどうぞ」
「それでは」と通話は一方的に切られた。前川の口調から、強がっている様子は感じられなかった。それどころか嘲笑さえする始末だった。
遼平は考えあぐねた末に、警察に通報するのはやめておくことにした。
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