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大正時代の、ある家庭の日曜日の午後。
「ピアノなんて、大っ嫌い!」
糀谷駒子は、両手を鍵盤の上に叩きつけ、部屋を飛び出し、どたどたと大きな足音を響かせて、階段を駆け下りた。
「駒子お嬢様お待ちください!あともう少しで新しいピアノの先生がいらっしゃるんですよ!?どうかお戻りください!」
後ろからは、駒子の乳母である、ユクさんの声が後を追う。駒子は、着物の裾が乱れるのも構わず、全力で廊下を駆け抜けた。
「ああ、旦那様になんとご報告していいものやら…」
ユクさんが3階の音楽室の前で、がっくり肩を落としているころ、駒子は家の外にいた。大きな藤棚のある庭を通り過ぎ、屋敷の外れにある馬小屋に向かう。
「私のかわいいブラック・アレクサンダー、元気にしてた?」
駒子が声をかけると、艶やかな黒い毛並みの子馬が、鼻を上げた。
「私にとってはね、お前が私の兄弟で家族なのよ」
アレクサンダーの頭から首にかけてを撫でると、ぺろりと舌を出して、手を舐めてきた。
「ふふふ、くすぐったいなあ。大好きよ、アレクサンダー」
駒子は、去年の13歳の誕生日に、父親からプレゼントされた子馬を、誰よりも可愛がっていた。
駒子の父親である糀谷将門は、海軍の元官僚で、引退後、貿易会社の社長になった。駒子の母は、あまり身体が丈夫でなく、駒子が5歳のときに亡くなった。
45歳を過ぎてできた一人娘である駒子を、父親は目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
わがまま放題の駒子は、他の人たちが、毎日の食事にさえ事欠く時代なのに、アイスもケーキも、アップルパイも食べ飽きていた。
駒子の父親は海外で仕事をすることが多いため、ほとんど家にいなかった。
父親が家を空けるようになってから、駒子の部屋は高価な着物や洋服、本や画集で溢れかえったが、
ものが増えるのに比例して、駒子の心は孤独を増していくようだった。
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