ドキュメント

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 そしてもう一つ、鉄郎自身が有紗を手放したくないと考えたからだ。有紗が自分を選んでここへ来てくれたという事実。それへの嬉しさが、決断を鈍らせていた。  寒くないように毛布をかけてやり、水で唇を湿らせてやり、髪を梳かしてやった。まるで蘇生するのを待つように、動かない有紗をじっと眺めた。  そうすると、時折、有紗の脇の下にある暗がりから、白い腕がのびた。ひらひらと、何か求めるように彷徨う。そして、鉄郎を見つめる視線が放たれる。ちらりと、片目だけが暗がりにのぞく。  鉄郎は白い腕を触れた。  細い指が鉄郎の手の甲をなぞる。  指と、鉄郎の指が絡み合う。  優しく、ゆっくりと、絡んで、消える。  また、時に歌声が聴こえる。  その歌声をたどって部屋を探すと、それはギターからであったり、蛇口からであったり、ドアの蝶番からであったりした。  どこにいても、有紗を感じることができた。  有紗の存在は感じることはできたが、有紗の思いを感じ取ることはできなかった。  だから、毎日、有紗に問いかけた。  なぜ、ここへ来たのか。  ツトムに見切りをつけたのか。  それとも、鉄郎の思いを受け取ってくれたのか。  返事はない。  徐々に、有紗との生活は当たり前になり、いつも同じ場所に座る有紗に違和感を感じなくなった。  鉄郎は、幸せだった。 さすがに生きてるよね、と良子は言った。  久しぶりに電話をしてきて、第一声がそれだった。 「私さ、思うんだ。有紗は生きてて、床下でツトムがいなくなるのを待ってたのよ。で、ツトムがいなくなったところを見計らって逃げたのよ。見つかると、また殴られたりすると思って、今もどっかで隠れてるんだよ。きっとそうだよ」  自分を納得させるように「きっとそうだよ」と繰り返した。鉄郎は短く「そう」とだけ答えた。 「ねえ、鉄郎はどう思うのよ。海外にでも逃げたと思う? あの子、そんなにお金持ってないし。ツトムとボロアパートの一階に住んでたのよ」  しばらく考えて、鉄郎は口を開いた。 「例えば、例えばさ。ツトムが言うように、有紗が殺されて床下に埋められていたとするだろう。有紗は、どんな気持ちだろう。有紗は気がついたろうか。ツトムは有紗を大切にしない男だって。自分勝手でわがままな、ただのガキだって。有紗は気づくか?」 「それは、有紗でなきゃわかんないよ」
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