2人が本棚に入れています
本棚に追加
そしてもう一つ、鉄郎自身が有紗を手放したくないと考えたからだ。有紗が自分を選んでここへ来てくれたという事実。それへの嬉しさが、決断を鈍らせていた。
寒くないように毛布をかけてやり、水で唇を湿らせてやり、髪を梳かしてやった。まるで蘇生するのを待つように、動かない有紗をじっと眺めた。
そうすると、時折、有紗の脇の下にある暗がりから、白い腕がのびた。ひらひらと、何か求めるように彷徨う。そして、鉄郎を見つめる視線が放たれる。ちらりと、片目だけが暗がりにのぞく。
鉄郎は白い腕を触れた。
細い指が鉄郎の手の甲をなぞる。
指と、鉄郎の指が絡み合う。
優しく、ゆっくりと、絡んで、消える。
また、時に歌声が聴こえる。
その歌声をたどって部屋を探すと、それはギターからであったり、蛇口からであったり、ドアの蝶番からであったりした。
どこにいても、有紗を感じることができた。
有紗の存在は感じることはできたが、有紗の思いを感じ取ることはできなかった。
だから、毎日、有紗に問いかけた。
なぜ、ここへ来たのか。
ツトムに見切りをつけたのか。
それとも、鉄郎の思いを受け取ってくれたのか。
返事はない。
徐々に、有紗との生活は当たり前になり、いつも同じ場所に座る有紗に違和感を感じなくなった。
鉄郎は、幸せだった。
さすがに生きてるよね、と良子は言った。
久しぶりに電話をしてきて、第一声がそれだった。
「私さ、思うんだ。有紗は生きてて、床下でツトムがいなくなるのを待ってたのよ。で、ツトムがいなくなったところを見計らって逃げたのよ。見つかると、また殴られたりすると思って、今もどっかで隠れてるんだよ。きっとそうだよ」
自分を納得させるように「きっとそうだよ」と繰り返した。鉄郎は短く「そう」とだけ答えた。
「ねえ、鉄郎はどう思うのよ。海外にでも逃げたと思う? あの子、そんなにお金持ってないし。ツトムとボロアパートの一階に住んでたのよ」
しばらく考えて、鉄郎は口を開いた。
「例えば、例えばさ。ツトムが言うように、有紗が殺されて床下に埋められていたとするだろう。有紗は、どんな気持ちだろう。有紗は気がついたろうか。ツトムは有紗を大切にしない男だって。自分勝手でわがままな、ただのガキだって。有紗は気づくか?」
「それは、有紗でなきゃわかんないよ」
最初のコメントを投稿しよう!