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「有紗、有紗、俺に何ができる? どうしたら有紗は幸せになれる? 俺は、お前を幸せにしたいよ」
窓のないクローゼットの中の空気が動いた。湿度を含んだ冷たい空気が、床についた鉄郎の膝を優しく撫でるようにまとわりついた。
ひた、ひた、と裸足で歩く音がする。背後に誰か立った。
それが有紗だとしたら、きっと振り返ったら消えてしまうような気がして、鉄郎は目の前の有紗の体を抱き起こした。柔らかく、冷たい体は鉄郎の肩に顔をうずめて、よくできた蝋人形のように睫毛を揺らした。
鉄郎は有紗の頭に頬を当て、強く抱きしめた。
「俺は覚えてるよ。有紗の口癖、しぐさ、好きなもの、嫌いなもの。知ってるから。だから、安心していいよ」
会いたい。
君に会いたい。
君に会うというのは、昔の君を思い出すことじゃない。動かない君の体を抱き寄せることじゃない。新しい君との記憶を作ることなんだ。昨日と違う君との記憶を新しく更新することなんだ。
知っていた。
だから、もう君には会えない。
もう会えないんだ。
ほろほろと作った笑顔がはがれていく。
君を独り占めしたいと一方通行で、自分勝手でわがままな想いは、最低かな。どこにも跳ね返ることなく吸い込まれていく声で叫び続けてもいいかな。
「俺は有紗のことが、ずっと好きだから」
ひた、ひた、と足音が遠ざかる。
思わず振り返った。
気配は消えてしまった。
遠くで有紗の歌声が微かに聴こえた。
スーパースターのメロディだけ、鼻歌のように。
それが遠ざかって行く。どんどん遠ざかっていく。米粒ほどの小さな、希望の光が、心の片隅からどんどん消えていく。苦しげに震えるように点滅して、それは消えてしまった。
腕の中で、腐臭が広がった。
そこは、真っ暗な闇の中だが、甘い香りで満ちている。有紗の体と鉄郎は、刻まれる時間の中でじっと目を閉じていた。
どれくらい、そうしていただろう。
気がつけば、夜が来ていた。
鉄郎は、有紗の体を背負い、部屋を出た。
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