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そうやって何年も、ツトムから有紗の気持ちが離れるまで待ち続けるなんて、卑怯じゃないか。なぜ堂々と勝負しない。お前が奪っていれば、今頃有紗はこんなことにならなかった。それは、嶋田から言われるまでもなく、鉄郎の中に常にある言葉だった。
だから、有紗のあの傷は、あのアザは、鉄郎が逃げたからできたものだ。ツトムから力づくでも助けてやれば。
知っている。
知っているのに、それをしなかった鉄郎の罪は重い。少なくとも、鉄郎は自分の罪の重さを感じている。
有紗がどう思っているかは、別として。
「わからないんだ。有紗の気持ちが」
有紗はよく、カーペンターズを歌った。
バンドでは、その時流行りの歌を次々コピーしていたが、有紗が好きなのは、カーペンターズだけのようだった。帰り道、鼻歌交じりに嬉しそうによく歌っていた。有紗の声は、澄んでいて歌とよく合っていた。伴奏などいらない、アカペラで聴くのが一番いいと思った。鉄郎は、その歌を何とか録音できないかと試みたが、有紗がそれを拒否した。
「だって恥ずかしいんだもん」
歌うのは好きだが、残しておきたくない、と言う。
「でも、いつか有紗と会えなくなって、その歌が聞きたくなったら、どうすればいい?」
「じゃあ、覚えて。今、歌うから覚えて。聴きたくなったら思い出して。そして、忘れないで」
有紗は鉄郎の隣に座ると、鉄郎の耳に向かって歌った。
遠くを走る電車の音や、草を走る風の音、子供達の笑い声、車のタイヤがコンクリートをひっかく音。有紗の息遣い。夕焼けの匂い。
全部、その瞬間を鉄郎は頭にコピーすることができた。
できたのだ。
だから、真夜中の自分の部屋で、カーペンターズのアカペラが聴こえても、すぐに有紗だと気づくことができた。それは小さな小さな声で、床下から、壁の隙間から、または、本と本の間から、雑音をともなって漏れ聴こえていた。
この曲は、スーパースターだ。
有紗が一番好きな曲だ。
「有紗?」
ビビビビン!
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