2人が本棚に入れています
本棚に追加
アカリは、公衆トイレから目が離せなくなってしまった。
あの公衆トイレは違う。
あの公衆トイレとは、違う。
全く違うはずなのに、それなのに。
思い出は突然に追いかけてくる。
「よお、元気か」
声がする。
アカリはぎゅっと目を瞑ったが、もう遅かった。
「おい、無視するなよ、アカリ」
また来た。あいつだ。
「おい、忘れたのか」
公衆トイレの陰から、焦げた匂いを振りまいて、真っ黒な人影がこちらに向かってやってくる。人の形をした、炭の塊だ。
「なあ、覚えてるよなあ? アカリ?」
気のせいだ。そんなことはわかっている。わかっているのに、心臓は高鳴る。ダメだ、こんなところにいては。陽介と出会ってから、しばらくはこんなことなかったのに。アカリは険しい顔を作って、足早に歩き出した。
「待てよお、待ってくれよお、アカリい」
炭の塊が走って追いかけてくる。無視しなければ。これはアカリにしか見えていない幻なのだから。
「なあ、アカリい」
ぐっと右腕を掴まれた。
「キャッ」
反動で持っていた荷物が落ちた。目の前をタクシーがすれすれに走り去った。
「お前、何やってんだよ」
振り向くと、腕を掴んだ陽介がいた。アカリは逃げようとして、車道へそのまま出てしまうところだった。掴まれた腕が痛い。骨に食い込むほどに握ったようだ。
「あ、ごめん」
「あ、ごめんじゃないよ。危ないだろ。今日、早く終わったんだ?」
「あ、うん。陽介は?」
「夜シフト入る人いなくて、閉店までいなきゃならないから、一回帰って休憩しようと思って」
「そっか。おつかれ」
「お前こそ、疲れてるんじゃないの? 顔色悪いぞ」
冷たい汗がどっと吹き出している。落とした荷物を拾いながら、乾いた笑い声で誤魔化した。
「別に、なんでもないから」
荷物を腕にかけて歩きだそうとすると、陽介がその荷物を奪うように取り上げて、先に歩き始めた。怒ったのだろうか。黒いTシャツにカーキのスキニーパンツ。ポケットに携帯電話だけが入っている。この後ろ姿について行けば、家に帰れる。そう思うと、やっと深く呼吸することができた。
最初のコメントを投稿しよう!