瓶詰めジャム

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 アカリは、公衆トイレから目が離せなくなってしまった。  あの公衆トイレは違う。  あの公衆トイレとは、違う。  全く違うはずなのに、それなのに。  思い出は突然に追いかけてくる。 「よお、元気か」  声がする。  アカリはぎゅっと目を瞑ったが、もう遅かった。 「おい、無視するなよ、アカリ」  また来た。あいつだ。 「おい、忘れたのか」  公衆トイレの陰から、焦げた匂いを振りまいて、真っ黒な人影がこちらに向かってやってくる。人の形をした、炭の塊だ。 「なあ、覚えてるよなあ? アカリ?」  気のせいだ。そんなことはわかっている。わかっているのに、心臓は高鳴る。ダメだ、こんなところにいては。陽介と出会ってから、しばらくはこんなことなかったのに。アカリは険しい顔を作って、足早に歩き出した。 「待てよお、待ってくれよお、アカリい」  炭の塊が走って追いかけてくる。無視しなければ。これはアカリにしか見えていない幻なのだから。 「なあ、アカリい」  ぐっと右腕を掴まれた。 「キャッ」  反動で持っていた荷物が落ちた。目の前をタクシーがすれすれに走り去った。 「お前、何やってんだよ」  振り向くと、腕を掴んだ陽介がいた。アカリは逃げようとして、車道へそのまま出てしまうところだった。掴まれた腕が痛い。骨に食い込むほどに握ったようだ。 「あ、ごめん」 「あ、ごめんじゃないよ。危ないだろ。今日、早く終わったんだ?」 「あ、うん。陽介は?」 「夜シフト入る人いなくて、閉店までいなきゃならないから、一回帰って休憩しようと思って」 「そっか。おつかれ」 「お前こそ、疲れてるんじゃないの? 顔色悪いぞ」  冷たい汗がどっと吹き出している。落とした荷物を拾いながら、乾いた笑い声で誤魔化した。 「別に、なんでもないから」  荷物を腕にかけて歩きだそうとすると、陽介がその荷物を奪うように取り上げて、先に歩き始めた。怒ったのだろうか。黒いTシャツにカーキのスキニーパンツ。ポケットに携帯電話だけが入っている。この後ろ姿について行けば、家に帰れる。そう思うと、やっと深く呼吸することができた。
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