第1話

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1  雨が止んだので、バスから降りることにした。知らない場所まで来てしまった。  駅前から乗って、山の方向へ進んでいたと思ったが、ふと香ったのは潮の香りだ。どうやら、本当の迷子になってしまった。闇雲に電車を乗り継ぎ、夜通しでたどり着いた無人駅から、ただ目の前にいたバスに乗っただけ。TシャツにGパン、それに雪駄。使い込んだ長財布。ぼさぼさ頭とインクがついたままの右手。よく見ると、足の爪が随分伸びている。虫にさされた左腕を掻く。鏡を見なくても顔色が悪いことはわかった。  不思議と不安はなかった。どうせこんな場所、知り合いもいない。  迷子と言っても外国ではないし、誰かに聞けば民宿くらいは教えてくれるだろう。バスに乗れば駅前まで戻ることもできる。  うん、大丈夫。  木崎は、濡れたコンクリートをびちゃびちゃと言わせながら、海沿いの国道を歩き始めた。雨上がりの海は灰色に感じる。百メートルほど歩いて、Gパンの裾を捲り上げた。むっとした熱気が顔面を刺激した。考えてみれば、もう夏も近いのだった。  バイトを辞めて、半年になるだろうか。  両親と姉との四人暮らしで、その姉が去年結婚して家を出た。居酒屋のバイトは毎日騒がしくて、不安な将来を考えなくて済んだが、二年付き合った彼女を新人のバイトに寝取られてから何もかもやる気がしなくなった。バイトを休む電話を入れたら、店長が電話の陰で他の連中と笑ってる声が聞こえて、辞めます、と思わず言ってしまった。それからずっと部屋に篭り、昼間は眠り、無意味に泣いたり笑ったりして、憂鬱な時を過ごしていた。母親は台所で酒を飲むようになった。  俺が悪いのはわかってる。  台所で泣く母を見て、正直申し訳ないと思っていた。父は、俺のことも母のことも見てみぬふりだ。  築いてきた何かを放棄するのは簡単で、放棄した瞬間から社会は自分を必要としなくなる。こうして知らない場所にいても、誰にも迷惑がかからないのだ。  この半年間で、書きなぐった遺書は大学ノート五冊分。右手中指が変形し、ボールペンのインクは染み付いて取れない。  死ぬ気なんて毛頭ない。  遺書という名目の文章を書くだけで、心が少し救われる気がしたのだ。
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