第1話

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 目の前には、青い薔薇など花弁一ひらもなく、庭に転がった真っ黒な父の姿があるばかりだった。  夕日が赤く染まる頃、湿ったシャツが肌に張り付くのを感じながら、森下が向かったのは海岸沿いの小さな居酒屋だ。戸は開け放たれ、小上がりの座敷は影になり暗い。暗がりに背をあずけ俯く男がいる。 「待たせたな」  座敷の男は、片膝を立てて首を軽く横に振った。不機嫌そうに口元が歪む。 「まったく」  男はふんと鼻を鳴らした。 「まあ、そう言うな。昔のよしみじゃないか。あ、壜ビール」  森下は奥の主人に人差し指を立てた。脇に抱えていた上着を座敷に投げ出すと、男の向かいに胡座をかいた。 「この時間からビールとは、公務員も良い御身分だな」 「バカヤロウ、今日は非番だ」  森下は警視庁捜査一課の刑事だ。 「お前は、ああ、そうか。酒は飲まないんだったか。いや、飲めないのか」  卓袱台の上の湯のみを見て、それから男の顔を見た。男の顔上半分は包帯で巻かれていて、両目が見えない。男は盲目なのだ。壁には白い杖が立てかけられている。 「用件だけさっさと言え。俺だって暇じゃないんだ」 「ああ、悪い。手短に話すよ」  腰の曲がった主人が、壜ビールと、気を利かせてグラスを二つ、お通しの枝豆を持ってきた。グラスに注ぐと、ビールに乱反射した光が壁の黄ばんだポスターを照らした。 「人体発火だ」 「ふんッ」  男は鼻で笑った。 「お前なら何かわかると思ってな」 「悪いが、専門外だな。他を当てってくれよ。この俺だって、それなりに忙しいんだぜ」  男は、まるで見えているかのように湯のみを手にとると、ぐいと飲み干した。包帯から爛れた皮膚が覗く。 「忙しいのは、口寄せか?」  その男、名前は寺田一握。森下とは生まれが同じで昔馴染みだ。口寄せ、つまり降霊をする霊媒師を生業としている。降霊とは言え、彼の場合、死んだ人間の霊を降ろすわけではないという。神霊、自然界に存在するあらゆる御霊に伺いを立てる「神口」というのが彼のやり方である。 「いいか森下。俺はオカルト研究家じゃないんだぞ。人体発火現象なんて、こじつけのファンタジーだね。燃えやすかったから燃えたんだろ。火のないところに、とは言うが、燃やそうとすれば大抵のものは何だって燃える」
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