序章・武田信虎の近辺

2/2
前へ
/2ページ
次へ
 武田信虎(たけだ のぶとら)  明応3年1月6日(1494年2月11日)~天正2年3月5日(1574年3月27日)  屈強な国人衆を従わせ、甲斐を統一した猛将。最大の功績は、政治の中心を甲府に移し、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を造り、戦国大名武田氏の基盤を築いたことだろう。  とくに、甲府を政治の中心にすることで、これまで国人衆の頭をその領地から切り離し、城下の屋敷に住ませ、配下として手元に置くことに成功している。  国人衆から離れ、甲府に移したということで、新たな人材を隣国に求めることになった。    原虎胤、横田高松などが、その際に仕官している。これだけの革新を成し遂げながら、追放されたのは、暴戻であったため。    多くの優秀な人材を得ながら、ささいなことで誅し、あるいは追放し、戦で領民を疲弊させ、一説には、妊婦の腹を割いたとある。  そうした因果の報いとして、人心が離れ、追放の憂き目にあう。 『国が興るときは、民を負傷者のようにあつかい、国が滅びるときは民を土芥のように粗末にする』と古人の言葉にあるが、板垣、甘利の両職が策して追放したことで、亡国となるのを事前に防げたのかもしれない。    駿河にての隠居生活を悠々自適に暮らしていたのは、晴信自身が駿府に仕送りをしていたことに拠る。義元が討死すると、駿府を奪え、と晴信をそそのかす。そのために、駿府からも出され、京都へと行く。  のち、高遠城に戻るが、結局はそこに押しとどめられ、甲斐に帰還することはできなかった。        
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加