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ーー無粋な真似はいい加減やめよう。
胸の底に滞った熱情を吐き出してしまいたくて、深く深く、息を吐く。
ーーもう、別れのキスをした後だから。
「祷さん」
振り返るまでには、少しの沈黙。
「お返しします」
サイズの合っていないマスクを差し出せば、戸惑うようにこちらを見返してきた。
これ以上何も言わないし、しませんよーーそう告げるつもりで微笑む。
俺とマスクとの間で幾度も視線を往復させたあとで、温かな指が、面白いほどの慎重さで白に絡んだ。
愛しい。
俺は手を離した。
立ち上がり、そのまま楽屋へ向かう。躊躇いなど微塵も棚引かせずに。
と。
ひゅ、と、鋭く息を吸い込む音。
「岩武がっ、」
怒鳴るのに似た、上擦った声。
俺は痙攣するように足を止めた。
鏡を見なくても、眉間に深々と皺が刻み込まれているのが分かる。
今更ゴリラの話なんてどうでもいいです、と、あまりの苛立たしさに――しかし唇だけで紡いでも、背を向けているから当然気付かれない。
いや。向かい合っていても気付かなかったかも知れない。
「お前の昨日の演技、すげー、褒めてたぞ……!」
必死になると、彼は盲目。
しかし、何と言う力みようなのか。
上がり症を拗らせた人が、台本だけ渡されて突然舞台上に放り出されたらこうなるかも知れない。
「アンケートでも、歌とか、好評だったみたいで……!」
「……へえ。光栄だな」
呆れが苛立ちに勝る。
必死さが可愛らしくて大変結構だが、一体どういうつもりなのか。
「相楽さんも前、褒めてたしっ……あの人、変な頭してるけどすげー役者さんで、」
変な頭、で、ああと思った。
演技指導を担当したあの男かーーと。
思い出して、振り返った。
「なんか、っ」
ーーどうしてだ。
震える華奢な肩には、俺のしるしがまだ残っているんだろうか。
そのしるしが、彼の意思とは無関係に、俺を求めさせているのか。
「絶対良い役者になんのに、勿体ねえな、って、」
唐突にデクレッシェンドが掛かる。
今にも煙が立ち上りそうに紅潮した顔で、今にも消え入りそうな声で、
「………………岩武が、言ってた」
ーー人がせっかく、
ぎり、と音を立てて。
思わず、奥歯を噛み締める。
ーーあんたのために、
「……諦めてやろうと、思ってたのに」
感情のままに眼を細める。口角をつり上げる。
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