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ーーただ、
ーーまるごと夢に変えられたとしても、
ーーきっと、忘れられない。
『さくら先輩が好きです』
昨夜も槙田は、俺を不相応な花の名で呼んだ。二人きりの時はいつだって、何度やめろと言っても、硬なに呼び続けてきた。
ーー痕を残されたから。
それなのに、
『祷さん』
槙田は俺を、そう呼んだ。
静まり返ったロビーに二人きり。隅に鎮座した長椅子に隣り合わせ。
俺たちはいつだって、空間を無駄遣いする。
『お返しします』
この劇場にいる三十数人のうちで、恐らく俺だけが「こいつには似合わない」と思う、優しい笑顔。
心臓が、きゅ、と縮まった。
――なんだ。
――昨日のは、やっぱり冗談か。
俺は、奪われていた白に指をからめて。
――俺のことが好きだっていうのは。
――こんな俺でも、好きだって、
槙田は立ち上がった。
あっさりと、歩き出した。
――好きだって、言ったのに。
縮んだ心臓が痛かった。
弾けそうで怖かった。
ああ。あのとき、確かに、
行かないでほしい、と思った。
ーーくそ、
大嫌いなのに、大嫌いなはずなのに、と身悶えしながら脳内で連呼していたら、不意に、そうか、と合点がいった。
俺は槙田が大嫌いだ。そのことには疑う余地も無い。
しかし散々弄ばれたせいでーー最悪の事態と言っても過言ではないが、身体が勝手に奴を求めるようになってしまった、のかも知れない。
急所の心臓にまで暴走されたらもう、意思の方でも従うほかない、のかも知れなーー
ーーじゃあ、
ーー受け入れんのか。
「何を隠れているのだ」
頭が真っ白になったところに、久しく聞かなかった低音が降る。
顔を上げるとチェックのシャツ。更に顔を上げると、黒縁眼鏡を掛けた面長な男。
まあ、わざわざ眼で見て確認するまでもなく、声とーー特に話し方で、そいつだと分かるのだが。
「……バイト先の人に変なこと吹き込んでんじゃねえぞ、てめえ」
「仁科に会ったらしいな」
俺に倣って小声で返し、傍らにしゃがみ込んでくる。
「変なことと言うな。俺は尋ねられるままにありのままを伝えているだけだ」
今公演の脚本家ーー台本は書くが台詞を読まれるのは嫌だと言う本末転倒な男、瀬戸絢也がこうして劇場に現れるのは、相当稀なことだったりする。
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