黒川

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「やだよ、やだよ、そんな事」 色の白い青年が、半べそになりながら彼女に懇願していた。だが、頼み事を持ち掛けたのは彼女の方で有る。こちらも青年に懇願していた。 頼み事を聞き入れて貰えるまで、一歩も引きそうにない。 「お願い一郎、絵を描いて。あの子を今度は、あたしが守りたいの」 「でも……やだよ」 一郎と呼ばれた青年は、口ごもってなおも首を横に振る。他の頼み事ならば、好きな人の願い事だ。易々と受け入れたであろう。 しかし、これだけは譲れないと頑なに首を振る。 「一郎の絵なら、四郎児さんも気に入るって」 「そりゃあ、あの人に気に入られる絵を描く自信は有るよ。僕の絵は純粋に命の輝きを持つ。それが人を惹き付けるんだから」 自分の絵に自信を持ちながら、その口調は弱い。 「その力を守る力に変えて貰うの。貴方はただ、あたしをモデルに絵を描けば良いの」 逆に彼女の方は、絶対に折れまいとする意志を持ち、強い口調で頼み込む。頼み事をする側で有りながら、ほとんど命令口調だ。 「でも、生き物を描くとみんな病気になる。僕が描いた絵のモデルはみんな……」 嫌がる理由はそれであった。一郎が命有る物の絵を描くと、なぜかモデルが病気になるのだ。切り花等の植物に至っては、描き上げた途端に枯れ果てる。代わりに絵の方は、生き生きとした生命の息吹を持ち、見る人を魅了してやまない。 「大丈夫よ。あたしは平気」 「そんな事言ったって、保障何か無いじゃないか」 奇妙な自信に満ちた受け答えをする彼女に対し、一郎は尚も及び腰だ。それを第三者で有る男の声が遮った。鈴木翠が連れて来た手相見の占い師で有る。 「私が何とか致します」 好き放題な向きに伸びる、ふわふわの白い頭髪が、どこか長毛種の兎を連想させる男だ。柔和な表情で、つくねんと所在無さげに立っているせいもあるだろう。 「黒川さんは、不思議な力を持っていなさるの。それは対象の命を絵に写し取る」 「貴方が、翠ちゃんに変な事を吹き込んだの? 止めてよ。僕はこんな力、嫌なんだ。呪い以外の何物でもないよ」 蓬髪の男が、黒川を見て微笑む。柔和な顔付きは、成る程、手相見のイメージが有る。 鈴木翠が高校の頃から、足繁く通う占い館の占い師の一人であった。
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