第3話 記憶はマル。

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社内の噂というものは、侮れない。 何所から聞きつけたのかは不明だが、イケメンの社員が新しくやってきたという情報を聞きつけたらしい女性社員達が、千佳子の部署周辺を離れた場所から観察していた。 女性社員達のヒソヒソと話す声が少し気になるが、納期が迫っている業務に追われていたため、それどころではなかった。 「終わる気がしない…」 何故、忙しい時には、負の連鎖のように業務が増えて行くのに対して、時間に余裕のある時には、あまり仕事が入ってこないのだろう。千佳子のOL七不思議の一つである。 「千佳子ちゃん」 頭の上から声がした。パソコンの画面と睨めっこをしていた千佳子が顔をあげると、同じ部署のメンバーで、一歳児のパパである笠井が立っていた。家族の朝ごはんを用意してから出社をするらしい。 「笠井さん、おはようございます。どうしたんですか」 相変わらず髭が濃いな、などと千佳子が暢気に考えていると、笠井は腰を曲げて両手を合わせるポーズをした。 「これからテレカンなんだけどさ、千佳子ちゃんも同席して欲しいんだ」 「え、何でですか」 「フランス人とイギリス人とアメリカ人っていうトリプル国籍との会議なんだよ。みんな英語の訛りが激しくてさ、対面の会議だったらまだしも、電話会議だとまいっちゃって」 「構いませんけど、わたしそんなに英語できませんよ」 両手を合わせて懇願のポーズをとっている笠井に、千佳子はばっさりと断言する。よほど切羽詰まっているのか、笠井も折れない。 「いや、千佳子ちゃんはさすが帰国子女だけあって、リスニングとスピーキング能力は凄いもの」 「いや、わたし訛り耐性があるのはアメリカだけですよ。ブリティッシュ英語はちんぷんかんぷんです。それでもいいですか」 期待を裏切っては申し訳ないため、あらかじめハードルを低くする千佳子の作戦である。席を立ち上がり、ノートとペンを準備した。これで、今日のお昼返上が決定した。 「ありがとう、千佳子ちゃん」 千佳子が立ち上がると、ちょうどこちらを見ていた圭と目が合った。 「…」 凛とした瞳に一瞬吸い込まれそうになるが、千佳子の頭にぱっと思い浮かんだことがあった。 「永塚さん、英語できましたよね」 千佳子の完璧な笑顔に、圭はゆっくりと頷いた。
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