第十話

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「ん……」  初めて朝霞が声を漏らした。すぐに俺が振り返ると、体を起こしてこちらを見た―――が、すぐに視線を逸らした。 「すいません」  謝罪の言葉は俺でなく、母親に向けられていた。  俺の存在を、朝霞は完全に消去していた。俺の存在を無視して、対象者をその細い腕に抱き抱えて戻ってきた、あの廃工場の地下で見せた表情と同じだった。  怒りと悲しみのどちらでもない、やるせなさをもっていた。どこか冷たくて、何もかも根こそぎ奪われて、完全に諦めてしまったような眼だ。あの時は被害者を思うあまり、心を痛めて見せた表情だと解釈した。最初から俺に対して、向けていた表情なのか? 「由里さんがお姉ちゃんと呼ぶほど、親しい人に心当たりありませんか?」  いきなり何を言い出すのかと驚いていると、朝霞はもう朝霞個人ではなく、遺体捜査官の顔になっていた。何という切り替えの速さだ。  確か社長はお骨を引き渡す前に、朝霞が倒れたと言った。倒れる前に何をしていた?不完全な力を無理して使って、朝霞は声を聴いたのか。この事件は五人目の被害者を発見しても、解決するとは限らない。朝霞の眼はそう訴えていた。 「名前までは…ただシズ姉と呼んでいた、友人の話なら何度かありました」  あだ名を聞いた瞬間に、朝霞は明らかに動揺していた。表情が見るみるうちに強張り、出血するほど強く噛みしめた唇は、分かりやすいほど震えていた。その人物に少なくとも、心当たりがあるようだ。ここまで動揺するとは、ただの知り合いではなく、親しい間柄であることは間違いなかった。まるで自分に対する相手の全ての行為を、初めて裏切りだと、認識した直後のようだ。 「外部の仕事お疲れ様!初めてにしては上出来だね」  どうしてこうなった?なぜ、朝霞が俺の隣にいる?あの後お骨は母親が引き取り、一応は片が付いた。しかし、朝霞は無言のままだ。納得できないのは分かった。 「内部に戻って引き続き遺体捜索を頼むよ」  体調を崩したのだから、大事を取って早退するのかと思っていたが、ベッドから降りて、そのまま社長室へ直行―――現在に至るというわけだ。 「出来ません。由里さんのことでまだ、気になる点があります」  今回とは無関係だが、彼女が遺棄された理由は謎だ。社長は顎に手をやり、少し唸って、考え事を始めた。そして閃いたように、こちらへ満面の笑みを向けた。 「これならどうかな」
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