死亡ゼロの日

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 明らかない危険な香りがしていたがマスコミはむしろ、それを推奨していた。どこから連れてきたのか、某教授は最もらしく自殺や殺人はストレスを解消するのに適しているなどと言い出す始末だった。ようするに、死というものに善悪の概念が無くなってしまったから、マスコミにとって良い道具として扱われるのだ。アイドルが、如何に綺麗な死に方ができるのか、当たり前のように競うようにもり、それが更なる命に対する希薄さに拍車を掛けた。  死という概念が無くなった世界では、殺人事件を題材とするミステリー、サスペンスといった長寿番組は意味を成さなくなり衰退した。医者や葬儀屋関係の仕事も同じ理由で廃業に追い込まれた。  もっとも、人は死なず戦争をする意味がなくなった平和的な世界からみれば、それらの問題は些細なことだった。  学校でも命に大切を教えるのは廃止され、怪我をしないで済む方法の方に重点をおくようになった。死ななくなったとはいえ、怪我による痛みだけはどうしても解消されないでいたからだ。もっとも、その唯一の問題である、それも近いうちに解決する見通しは立っていた。  僅かに残った医学界の名誉ある医者達が痛みを打ち消すだけでなく、痛みを快楽だと誤認させる薬の開発に専念していた。人の身体を治すといった研究に比べれば遥かに楽で歓声は間近らしい。  その薬が世界中に流通した暁にはよいよ、人類にとって本格的な新時代の幕開けとなる。  新時代を告げる祝砲はすでに決まっていた。核や水爆による閃光だ。どこの国も持て余し、死が無くなってしまってはますます、無用の長物として扱われていた。それを、一斉に世界中で爆発させるのだ。  かつては悪魔と呼ばれた兵器であるが、死なない今では派手な花火と同じだった。大地は焼き払われることになるが、人類が本当の意味で新時代を迎える上では都合が良かった。焼き払った大地の上に新たな都市を建設すればいい。  世界中はその新しいビジネスに熱心であり人々は更地となった土地を買い占めようと必死になって先を争うのだった。いや、死はないので必死ではない。本気で先を争うのだった。
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