第6話

5/32
146人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ
空気は乾燥していたけれど風もなく、 まだ月が顔を出してる真冬の早朝。 薄暗い中、 次第に小窓から見える空が、明るく色づき始める清々しい光景とは裏腹に、 バスに揺られながら、重く伸し掛かる眠い目を擦って思考を巡らした。 …どーして、こんな朝早くから出かける事になったんだっけ… 俺は今、三津さんの別荘に向かう早朝バスの車内に居る。 そもそも、こんなややこしい事になった原因は 遊佐の容赦ない一言からだ。 ----遡る事、一週間前。 俺はいつものように時間潰しを兼ねて、遊佐の事務所に来ていた。 耳に自然と入ってくるのは、水槽からの水泡音と微かな自分の呼吸音だけ。 此処に居ると落ち着く。 何も、考えなくていい。 気を遣う必要もない。 目を瞑ってしまえば、視界は暗くて何も見る必要も無い。 誰の目にも自分は映らないし、比較される事もない。 元々、素直な気持ちなんて持ち合わせていないけれど、 他人を欺く事に何の躊躇いなかった自分が背徳を感じるようになったのは、 つい最近の事。 仰向けでソファーに寝転んで、 意識を遠くへ向けるよう深い呼吸を繰り返した。 自分の中に生まれようと蠢く知らない感情を 意識的に追い出す為に。 気にする事なんて無い筈なのに、 彼女に関われば関わるほど、自分を見失いそうになる。 これは一体何なのだろう… --近づきたくない。 --触れたくない。 --離れたくない。 --触れてみたい。 自分の中で不意に沸き上がってくるものなのに、 自分がそれを理解出来ないなんて事、 有り得るのだろうか。 悩んだところで、応えなんて出る筈もなくて、 ”深入りしなければいい”と 最終的に結論付けて、潜在意識によってもたらされた思考を手放した。 それと同時に扉の向こうからコツコツと靴音を響かせて、 こちらに誰かが近づいてくるのを感じた。 今思えば、この靴音の主に出逢ってしまった事が、 俺の人生最大の失敗だったのかもしれない。 けれどあの時は、 差し出された手を掴まなければ逃げ道が無い所まで、 落ちていたのは自分の不甲斐なさ故。 今は、感謝する気持ちもなければ、後悔もしていない。 俺はただ、流れに身を任せていればいい…それだけの事。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!