出廷

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「不安は消えたみたいですね」  私は、また弁護人を睨みそうになった。表情だ、表情から読み取っただけだ。 「ああ、待たせてすまない」私は柔らかな表情を作った。「行こうか」 「こちらです」弁護人は、私を先導するように、やや前を歩き出した。  無駄な装飾が一切施されていない廊下を歩く。まるで学校の廊下のようだ。両側のドアを一つ過ぎるたび、懐かしい記憶が蘇る。私の意識は時間を遡り、急速に若返っていく。  私は医大生で、毎日の課題に追われている。  私は高校生で、恋人と青臭い愛を語っている。  私は中学生で、理不尽な教師に反発している。  私は小学生で、可愛いあの娘を横目で見ている。  初恋のあの娘はどんな顔だっただろう? 水面の波紋が巻き戻るように、失われた女神像が再生される。  もう少しだ……。これで私は、無垢な少年に戻れる。 「ふざけるな!! このケダモノどもが!!」右側から怒号が聞こえた。  記憶に干渉され、女神像の再生は失敗した。私の脳裏に映った初恋の娘は、交通事故で、無残に顔を潰された少女になった。  不快感と共に、私の足は止まる。記憶を汚された怒りを込め、右側の扉を睨んだ。だが、少年の心が老けるに連れ、それは消えていく。  この廊下は、自由奔放に駆け回った廊下でもなければ、この両側の扉の中は、あの娘が窓際に佇んでいた教室でもない。全ての室内は、法廷なのだ。 「鬼千さん、歩き続けて下さい。ここで止まることは許されないのです」弁護人も足を止め、私を促した。 「それは何かの規則かい?」弁護士は答えない。「まあいい、中で何が起きてるのかな?」 「お答えできません」弁護人は、辺りをせわしなく警戒し始めた。「ここで会話すること自体、禁止されてるのです」  こいつは何に怯えているのだろうか? 「権利」、「規則」、こいつらのアメリカ被れの発言が、いちいち感に触る。私は頑なに歩みを止め、黙り込んだ。 「わかりました。わかりましたよ」弁護人は諦めたように、小声で話す。「この法廷では、処刑の判決が下ったようです」 「処刑か、どうやって殺すんだ?」それは、私の気掛かりでもあった。 「苦痛はありません。極めて人道的な処刑方法です。さあ、お願いですから歩いて下さい」  質問の答えになっていない気もしたが、私は再び歩き始めた。「人道的な処刑」とは、笑わせてくれる言葉だが、なぜか笑えなかった。
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