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思いつくことすら憚られる。私はこの世で最も恐ろしい想像をしてしまった。もしや、母もこの法廷に来ているのではないかと。私の全身から、汚らしく体液が沸き出る。
お願いだ、いないでくれ……。お願いだ……。それだけは……。私は自分でもわかるほど、狂気の眼差しで傍聴席を見回した。
「鬼千さん? どうしたんです? 落ち着いて下さい」弁護人も私に同調し、そわそわと体液を滴らせ始めた。
いない……。間違いなくいない。背が高い男の影にも、太った女の後ろにもいない。そうだ、いるはずがない。母は二十年前、私が研修医になると同時に死んだのだから。
「すまない、もう大丈夫だ」私は目を閉じ、大きく深呼吸した。
私の全身から沸き出た汗は、膨大な気化熱と共に消える。
「お願いしますよ。裁判官の前では、躊躇や動揺は許されないのですから」弁護人の額から滴が落ちた。
私は、再構築された今の司法制度も、裁判制度も知らない。「許されない」と、言われたところで、私にはどうすることもできないではないか? それに、誰よりも動揺を抑えるべきは、弁護人自身に思えた。
次の瞬間、裁判官が入廷するのに呼応して、弁護人から滴る体液は、量を増した。弁護人はようやく気付いたように、スーツのポケットから、ハンカチを取り出す。
どこぞの高級ブランドのハンカチは、弁護人の顔を這わされ、吐瀉物を掃除した雑巾と同価値になった。
私は、入廷してくる裁判官の容姿が目に止まった。真っ黒な法服を纏っている。たしか、「何ものにも染められぬ」という意味で、黒一色だったはずだ。だが、私の心象は違う。これは死神の装束だ。命を救う医者の白に対して、それに反する色だ。
「これより開廷します」裁判官は、机上に木槌を打ち立てる。「被告人は証言台へ」
私は言われるままに立ち上がった。たしか、日本の裁判では、木槌を使わなかったはずだ。これもアメリカの真似だろうか? どうせならイギリスの真似もして、金髪カールのかつらも被ってしまえばよいのに。
私が依然テレビで観た裁判の知識は、役に立たないだろうが、この裁判の流れは、当然ながら事前に弁護人と打ち合わせていた。だが、あの程度の打ち合わせでは、それこそ役に立たないだろう。
「被告人は、この法廷において、真実のみを述べることを誓いますか?」
質問を知っていた私は、答えをあらかじめ考えていた。
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