スパイの女

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 今朝、私は一本の電話で目を覚ました。  ここは、とあるホテルの一室。数日前から泊まっていたけれど、掛かってきた電話はモーニングコールではない。そもそも、私はモーニングコールを必要としていなかった。  電話は鳴っていたけど、私はすぐに電話には出なかった。ベッドから降りると暢気にシャワーなんかを浴びた。その間も電話は鳴り続けていた。  シャワーを浴び意識を完全に覚醒させるとバスタオルで身体をくるみ、やっと受話器を私は取る。 「はい。キャサリン。待った?」 「待ってなんかいないわ。電話してから、ほんの数秒よ。母さんがなかなか、電話を替わってくれなくて困っていたのよ」  変な会話。他の人から聞いたら、そう思うでしょう。しかし、これは私が所属するスパイ組織の秘密の暗号。  どんなイタズラ電話でも十数分も鳴らし続ける人はいない。長いコールは組織からの連絡である証。キャサリンというのも、組織での仮名。本当はちゃんとした名前があるけど、今は言わないでおくわ。だって、スパイだし。秘密を守ってこそでしょう。  暗号文を交えての日常会話の内容は、直ちに支部に来いという命令だった。  私は受話器を戻すとくるんでいたバスタオルを脱ぎ捨て、私服に着替え、チェックアウトする。支部はホテルから出て、少し向かった先にある雑貨屋。  私は雑貨屋を訪れると、陳列棚に並んだ商品を見て店長と値段の交渉をするフリをしながら、組織の証であるIDを提示した。IDを確認すると、店長は紙袋に商品をしまい、それと一緒に指令書を手渡してくれた。隠してではなく、同等と封筒に入れて。  私は人目に細心の注意を払いながら、何食わぬ顔で指令書に目を通した。そして、丁寧にそれを封筒に戻すと、 「すいません。あなたとお付き合いすることはできません」  店長へと指令書を返した。店長は残念に溜め息をつくと、私の目の前で指令書を燃やすとゴミ箱に捨てた。完璧なやりとりだと、私はつくづく、感心する。
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