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ただの一度も、都季のことを忘れたことは無かったのだ。否、忘れたくても忘れられなかった。
しかし、こちらがそうであるにも関わらず、あの娘は澄ました顔で、どちら様かと訊いてきたのだ。
ああ、思い出しても腹がたつ――。
格子の向こうでは、都季が現れないのを下男に愚痴っている男がいる。
下男は、しきりにこちらの様子を窺っている。都季が来るのを待っているのだろう。
毬子は静かに目を閉じた。
深く息を吸った。
仄かに白檀(びゃくだん)の香りがする。昼間のうちに部屋付きが、着物に香を焚きしめたのだ。
強ばっていた肩から、ゆるりと力が抜けていった。
もう、都季に悩まされることは無くなるのだと思った。
「失礼します」
ふと、斜め後ろで声がした。
障子を開けて入ってきたのは、唐紅の長衣をまとった都季である。
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