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『外科室』
「主人公の外科医は、貴船伯爵夫人という高貴な女性の手術をすることになった」
遙人は人の言葉を待たず、ぽつぽつ語り始めた。
私は、黙って話に耳を傾ける。長話は嫌いだが、彼の話を聞いてみたい思いが強い。
「外科室に入って、彼は貴船伯爵夫人と対面する。そして、手術を始めるときになって、夫人が麻酔かけずに手術をしてくれと言い出した」
彼の言葉が、するすると耳に入ってくる。私は、いつの間にか彼の話に聞き入っていた。
「夫人は、薬を打たれ眠っているときに、心の中に秘めた秘密を譫言として呟いてしまうのを恐れた。麻酔をかけずにできないなら、治らなくていいと夫人は訴えた。彼女は自分の死をもっても、胸中の秘密を守ろうとした」
私の頭の中に、手術場が浮かんでくる。
寝台に横たわる夫人と、彼女を見下ろす医師。秘密を守るために手術を拒む彼女に周囲は困惑している様子がありありと想像できる。
「夫人の容態は芳しくない。だが、夫人は麻酔を拒み続けた。先生が切ってくれるなら、痛くない。自分は動かないから、どうぞこのまま切ってくださいと」
マスクで顔の下半分を覆った医師が、夫人と周囲の人々の間で葛藤する。姿は思い浮かんでも、私には彼が何を思ったのか分からなかった。
「結局、医師は、夫人にメスを入れた」
私は、ごくりと唾をのんだ。彼の決断に、言葉が出ない。
「夫人は、足の指も動かさずに堪えた。そして、メスが骨に達するその時、彼女が起き上がって、彼の手をつかんだ」
遙人は手元の本を捲り、静かに読み上げた。
『痛みますか』
『いいえ、あなただから、あなただから』
一人二役。最初の言葉は医師、次の言葉は夫人だ。
彼の眼は真剣だった。真摯な瞳で文字列を追い、薄い唇で言葉を紡ぐ。そして、突然、私の手を掴んだ。
『でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!』
『忘れません』
タイミングを計ったかのように、陽光が病室に差し込んだ。遙人は、そこで透き通るように美しい、儚い笑顔を浮かべていた。
「その声、その呼吸(いき)、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれししげに、いとあどけなき微笑を含みて、高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変わりたり。そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。」
全身が感動で震えた。
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