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類は一応気を使ったのか少し離れたところに立っていたのだが、沙和子が礼を言ってスマートフォンを手渡すと意味ありげにじっと沙和子を見つめている。
「・・・言いたいことがあるなら、聞きますよ」
沙和子が俯いたままそう言うと、類は心底不思議そうな顔をして沙和子の顔を覗き込んだ。
「旦那に、嫌だって言わないの?」
やはり聞こえていた。沙和子は自分の頬が熱くなるのがわかった。
類は自分のことを、「夫に何度も浮気を繰り返されてしまう女」だと思っている。
そう考えると惨めな気持ちになった。
「・・・私は、つまらない女なんです。戦う勇気も気力もないような」
他人に指摘されて傷つくくらいなら先に言ってしまえ。そんな情けない自分に、沙和子はさらにがっかりする。
駅の手前の裏道を歩きながら、沙和子は早く店につけばいいと思っていた。
類はとくに何も言わなかった。ただ何か考え事をしているようだった。
普段から特に会話を弾ませながら出勤している訳でもないのでいつも通りの風景と言えばその通りなのだが、今日の沙和子は何となく居心地の悪いまま一定の距離で歩き続けた。
店が入っている雑居ビルの前まで来ると、階段の脇に男の子がしゃがんでいた。
5歳くらいだろうか。9月の終わりで段々と夜は肌寒くなってくる季節だというのに、男の子は白いTシャツにジーンズのハーフパンツ姿だった。もうすぐ八時になるところだが、近くに親らしき大人の姿はない。
沙和子は妙に気になってしまい、男の子に近付いた。息子の将大と同じくらいの歳の子だったせいもあった。
「どうしたの?ひとり?」
沙和子が少し屈んでその子の顔を覗き込むと、その子は驚いたように後ずさった。
晩ご飯を食べた後だったのか、口のまわりについた何かがかぴかぴになってこびりついている。
「お母さんか、お父さんは?」
あまり怖がらせてはいけないと、沙和子は静かに質問する。
男の子は沙和子から視線を逸らして、ぼそぼそと呟いた。
「・・・知らない大人とは、しゃべんない」
「うわー、その言い方可愛くなーい」
そう言ったのは後ろにいた類である。
男の子は声のした方を見上げて視線を鋭くしたが、類の姿を確認すると、途端にうろうろと視線を泳がせた。
小さな子供からすれば、全身真っ黒な出で立ちの若い男が話しかけてくるなど、恐怖でしかなかったのだろう。
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