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朝から降り続く雨は、午後には雪となった。大粒の雪がビニール傘に落ちる。絢人は仕事場へと早足で歩いた。
記憶は一旦流れだせば、絢人の心も体も、爪先までも隙間なく浸食していく。そうなると、絢人の日常は、--それこそが現実であるにも関わらず--、絢人自身からどんどん遠いものになっていく。自分と日常のあいだに薄い膜が立ちこめている気さえするのだ。
でも、ただ生きていくだけなら、身の回りのことを一つずつやり過ごしていく、それだけで実は何も支障などない。そのことに絢人は、最近になってやっと気づいた。仕事に行くことも買い物をすることも眠ることも食事をすることも、生活のほとんどを心が麻痺した状態で送ってもなにも問題がないとは。
一階がラーメン屋になっている古いビルのえんじ色で塗られたらせん階段を上がると、二階に絢人の働くバーがある。バーの扉をあける前に絢人は立ち止まり、深呼吸をした。そして目を閉じ、瞼に力をこめたあと、その瞼をゆっくりと開く。自分の瞳に、人間の感情を映し出すために。そしておもむろに目の前の扉を押した。
「おはようございます」
軽く微笑み、カウンターの中で在庫のチェックをしているらしいオーナーに挨拶をする。
「おう、おはよう」
着替えをするために店の奥の事務所兼倉庫に直行しようとすると、オーナーが背後から声をかけてきた。
「あ、絢人。樹生が来てるぞ。お前に会いたがって、うるさくてな。何時に来るのかって」
「会いたがってたって、一週間ぐらい前に会ったばかりじゃないですか」
樹生はオーナーの甥にあたる大学生で、週に二、三日このバーでアルバイトをしている。たいていは店が一番混む木曜や金曜に手伝いに入るのだが、オーナーの都合が悪い時などには絢人と二人だけで店をあけることもある。樹生は大学四年生で既に就職も決まっており、先週はバイトを休んで同級生と卒業旅行に南の島に行ってくると言っていた。フィリピンだかニュージーだかサイパンだか、樹生から行き先を聞いたはずだが、それがどこだったか絢人は思い出せなかった。
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