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サトルはいつも姿を現しているわけではなかった。
わたしが、話しかけたときや、
サトルから何か話があるときだけ姿を現した。
幽霊って結構便利なものらしい。
サトルが現れた日の夜、
わたしはダイニングテーブルに頬杖をつきぼんやり白い封筒を見つめていた。
封筒には、細い弱々しい字で『辞表』と書いている。
死ぬつもりだったから、わざわざ提出することもないと思っていたけれど、
今
わたしは確かに生きている。
ということは、これを出さない限り
わたしはまだ社員の一員で
会社に行かないわけにはいかないのだ。
今日は有休を使って休んだが、
とてもじゃないが『彼』がいる会社になんて行けない。
部署やフロアも違うけれど、
いつどこで出会ってしまうか分からない。
付き合っていたときはこっそり
非常階段で、キスしたり…。
そんなことが楽しかったはずなのに。
婚約破棄の話は
今日、『彼』が責任持って
上層部の人達に報告すると言っていた。
結婚式の招待状もすでに出していたし。
報告しないわけにはいかなかったのだ。
噂が流れるのも時間の問題だろう。
同僚や上司もきっと同情の目で見てくるに違いない。
「はぁ…」
「会社に行きたくない気持ちは分かる。
でも、ここで逃げたら負けやで。
ここまでキャリア積み上げてきたんやろ?
もったいないやん。」
いつのまに現れたのか、サトルがわたしの真後ろに立って、辞表を見下ろしながら、言う。
「わかってるけど…。」
わたしはため息混じりに答える。
「まぁ、無理強いはしやんけど。
辞めたら逃げ出すみたいやん?
千里は悪くないのに。
オレは千里が幸せになってくれたらアイツを見返せると、そう思ってる。」
サトルが言う『アイツ』とは付き合っていた『彼』優斗(ヒロト)のことだろう。
「どーせ、死のうと思ってた命やろ?
どーなってもいーやん。
あがいてみたら??」
そう言うサトルは
なんだか楽しそうにさえ見える。
「ひとごとだと思って…」
ちょっとイラっとしたけど、サトルの言うとおりだ。
どーにでもなれ!
ビリビリと目の前の封筒を破って丸めて、ゴミ箱へ狙いをつけて投げる。
コンっと音を立てて辞表はゴミ箱へ消えた。
「オレはいつでも、千里のそばにおるから。強気でいったらいーねん。」
ちょっと照れ臭そうにそう言って
サトルはまた姿を消した。
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