出会い

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サトルにうまくのせられて 出勤することになったけれど、 やっぱり足取りは重い。 満員電車の中で揺られながら憂鬱な気分に浸っている。 実は。 大手とは言えないけれど、そこそこ名前が知れている文房具メーカーに勤めている。 人並みにしか就活はしていなく、 特に何の取り柄もなかったけれど、 わたしと同じ大学のOBが優秀だったから、と今の会社に運良く採用された。 今ほど就職氷河期ではなかったし、 本当に運だけで就職が決まった。 とりあえず持っていた簿記の資格のお陰で、 経理の仕事も与えてもらって、 仕事もやりがいがあるし 同僚ともうまくやっていた。 そして……、優斗と出会った。 優斗と出会うまでにも もちろんそれなりに恋愛もしたけど。 でも、優斗との恋は特別だった。 甘くて刺激的だった。 お互い結婚を意識する年頃だったし、 プロポーズを受けたときも何の迷いもなくイエスと答えた。 何もかも順風満帆だった。 だからこそ、 優斗から別れを告げられたとき、 何もかもが崩れ去った。 後にはなにも残らなかった。 会社の前まできて また足が止まってしまう。 その時背中を押すように追い風が吹いて 風に乗ってあの関西弁が聞こえる。 「大丈夫やって。 胸はって行ったらいーねん。 千里は何も悪いことしてへん。」 その言葉を聞くと なんだか心が軽くなるのが分かる。 IDカードをぎゅっと握りしめて一歩を踏み出した。 総務・人事・経理の3部が一緒の2階のフロアがわたしの仕事場だ。 まるで新入社員の時のように 心臓がバクバクしている。 大丈夫、大丈夫。と自分に言い聞かせて 人事部の間をすり抜けて経理部の自分の席についた。 みんながこっちを見ている気がする。 恥ずかしい。 帰りたい。 顔を上げることができず、自分のデスクの上に視線を落とす。 パソコンのキーボードのところにピンクの紙がついているのが 視界の端に入り込んできた。 ? 見ると小さな付箋だった。 『負けんな! また飲みいこ!』 癖のある丸文字でその二言だけ書かれた愛あふれるメモ。 人事部にいる同期の亜未だとすぐにわかった。 胸が熱くなるのが分かった。 でもまだ顔は上げられない。 『千里、顔あげてみぃ?』 サトルの優しい声が聞こえた。
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