3875人が本棚に入れています
本棚に追加
/226ページ
.
それから暫くの間、琴ちゃんは店に姿を見せなかった。
学年末考査が近く、今回は本気で勉強しないと落第してしまうかもしれないという、彼女らしい理由で。
ここのバイトに関しては申し分ないくらいに優秀でも、その力はどうやら勉強では発揮されていないらしい。
必死に家で勉強している琴ちゃんを思うと、自然と頬が緩んだ。
そして俺自身もパリ行きを決めたからには、できうる準備を始めないといけない。
見ず知らずの土地で生活をするのであれば、それなりの日常会話すらできて当然なのだ。
空いている時間には、語学力をつけるための教材を開いてCD聴いて。
週に2回は教室にも通った。
昔から人見知りは激しいけれど、知らない人と接することに苦手意識なんか持っている場合ではない。
琴ちゃんはこの店で、初めて出会うお客さん全員に、いつも笑顔で明るく気さくに対応していた。
自分が成し遂げようとしている人生最大の偉業に、目が回って立ち眩んでしまいそうだけれど。
琴ちゃんの笑顔が、怯みそうになる俺の背中を何度も押してくれた。
琴ちゃんがいてくれたから……。
俺は、前に進み続ける勇気が持てた。
しかし、その1週間後。
久しぶりにバイトに来た琴ちゃんは、俺とは目を合わそうともしてくれなかった。
厨房からこっそり覗きみる横顔は、いつものように笑っているけれど。
その目は、どこか寂しげにも思えた。
.
最初のコメントを投稿しよう!