3890人が本棚に入れています
本棚に追加
*****
朝11時。
小さなベルの音と共に、店の扉が開かれる。
俺が挨拶をする前に、その人物は明るい声で話しかけてくれた。
「コウちゃん、おはよう。今日も朝からいい香りねー。」
「あ、直子おばさん。おはようございます。」
この直子おばさんは隣の家に住む人で、この店のいちばんの常連さんだ。
父さん直伝のハチミツロールを、毎朝いちばんに誰よりも早く買いにきてくれる。
「わざわざ出向かなくても、家まで持って行きますよ?」
「そうね、でも……こうして毎日ここに来るのが、日課になっちゃっているから。」
そう言って今日も、焼き立てのハチミツロールを注文してくれる。
ハニーの名前を語っているがゆえに、うちの店の名物でもある品だ。
開店当初は少し話題になって、これを買うために行列ができたり、雑誌に取り上げられたりしていたみたいだけれど。
そんなのは所詮、過去の栄光だ。
壁に貼られた昔の雑誌の切り抜きは日に焼けてしまって、今はもうみすぼらしい代物でしかない。
それもそのはず。
今はこんな店に来なくたって、外にはお洒落なカフェがある。
凝ったスイーツと洗練されたサービスがある。
俺は、お菓子作りは専門だけれど、どうも人と接することは苦手だ。
直子おばさんは昔からの知り合いなので気心しれているが、基本的な接客は全て母さんの役目だから。
俺はただ、父さんの教えてくれたレシピ通りに、決められた分量を守ってケーキを焼くだけだ。
正直これは、俺でなくてもできる仕事だ。
.
最初のコメントを投稿しよう!