第8話

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「こんばんは、今日はお仕事帰りですか」  結局、壮真への最初の一言は、あの夜と同じ、最も無難な質問になってしまった。「仕事帰りですか」なんて今日は平日なのだし、壮真はスーツ姿なのだから仕事帰りに決まっているだろう。他の客にはもうちょっとマシな対応をするのに、と絢人は胸の中で舌打ちした。 「ああ」壮真の返事は言葉少なだった。ああ失敗した、と思って絢人が次の質問を考えていると、 「山上は今日休みだったよな」  と壮真が隣の連れの男――暖かそうなボーダーのニットを着ている――に話を振ってくれた。絢人は救われた思いで 「あ、そうなんですね。……お客様は平日がお休みのお仕事なんですか?」 と話を続ける。男の職業は会計士らしい。繁忙期が終わって暇な時期のため、まとめて有給を取らされたそうだ。 「明日からイタリア観光らしいぞ、うらやましいご身分だよな」 と壮真が付け加えた。 「イタリアですか! いいですね、僕もずっと行ってみたくて」 「へえ、イタリア興味あるの?」山上が絢人に尋ねた。 「ええ、ニュー・シネマ・パラダイスっていう古い映画が昔から好きだったので、いつか行ってみたいなと」 「へえ! 俺もあの映画昔何度も観たな。なんであれが好きなの?」絢人の発言に、山上は絢人に興味を持ったらしい。先ほどよりもテンション高めの質問が返ってきた。 「僕は、そうですね、あの最後のシーンで主人公がひとり映画館で昔のフィルムを見てるところとか、うまく説明できないんですけど、すごく切ない感じがして……」涙が出てしまうんです、と言うのは控えることにした。  イタリアの片田舎。主人公は恩師の死を知り、三十年ぶりに捨てた故郷に戻る。映画はほとんどが過去の回想だ。そしてラストシーン。主人公は昔のフィルム――古い映画のキスシーンばかりを集めたもの――を一人、誰もいない映画館で回す。  故郷、母親、幼い頃の思い出、孤独、純粋な恋、男女のキス。そう言ったディテイルのどれに自分が反応しているのか、絢人は自分でもよくわからない。泣いてしまうものは俺がゲイだからなんだろうか。手に入れる前に既に失ったものだから? 自問しても答えはわからないけれど。
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