第10話

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 半年ぶりに髪を切ろうと思いたち、インターネットで探した美容院は二駅先で、絢人は自転車で行くつもりだったのだが、雨が降っていたので結局電車を使うことにした。  車内はがらがらだった。居眠りをしている老人に、虚ろな視線をした制服姿の子ども。何ともなしに周囲を見ていた絢人は、ふと中吊り広告に目をとめた。それは、ある舞台のオーディションの広告だった。  その舞台の演目は、ずっと昔にまだ絢人が小学生の高学年くらいの頃、母親と姉に連れられて一度だけ家族で観に出かけたものだった。絢人の家族は決してそういうことを習慣にしていたわけではなく、確か母親が友達にチケットを貰ったか、一緒に行こうと誘われたかして偶々行くことになったのだ。  そのことはずっと忘れていた。でもそうだ、寒い時期だったからちょうど一年ほど前。絢人は新宿の構内で、その芝居の再演を知らせるポスターを目にしたのだった。ふと心惹かれ、絢人はどうしてもそれをもう一度観てみたくなった。劇団の仲間たちは、そうやってポスターで宣伝されるような舞台を「堕落した商業演劇」と言って馬鹿にしていたから、平岡にも劇団の皆にも内緒で絢人はひとりで観に行った。  そこで絢人は圧倒された。  その頃はまだ、平岡の描く、鬱屈を抱えた者達が破滅に向かっていく芝居に絢人は心から打ち込んでいた。しかしそれとは相反する世界を、圧倒的な芝居で見せつけられ、絢人は頭がくらくらした。夢から覚めた気がした。現実を見せつけられた気がした。自分はしょせん、甘美な世界に酔っていたのかもしれないと思った。  その芝居には現実があり、現実をたしかに生きている人間たちが在り、そして舞台上から溢れる濃密なエネルギーは劇場全体を圧倒するようだった。  平岡の世界が、絢人を黒絹の滑らかなシーツでくるみ、美酒で酔わせ、眠りに誘うものであるなら、その舞台は絢人の閉じかけた目を覚まさせ、心臓を鷲掴みにし、揺さぶり、奮い立たせるものだった。優しく入り込んで内部を蹂躙するのではなく、魂の奥のまだやわらかい部分に鮮烈な爪痕を残すような。  本当のところ、自分は世界に絶望して自死を選ぶ男であるよりも、出来るならば、生き続けていたいと思っているのだ。現実と折り合い、ささやかな希望を抱いて。たとえ今自分が孤独に生きていても、世界はそれだけの場所ではない、と。  
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