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昼間の電車のほとんど誰もいない社会から取り残されたような空間で、絢人は思い返していた。舞台が終わった後の劇場のあの清廉な空気、座席からなかなか立つことが出来なかった自分。
再び中吊りの広告に目を遣る。ああ、自分がこの舞台に立つことが出来たらどんなにいいだろう。また舞台に立つことの興奮を、今度は死や絶望に囚われた人ではなく、現実と戦う人として。
オーディションを受けに行くことは可能だろうか。もちろん可能だ、と絢人は自分に頷いた。でも、平岡に会ってしまったらどうしよう。いや、この舞台に平岡が関わっているはずはない。自分に言い聞かせる。
でも、そもそも自分はあの劇団以外で舞台に立つことなど出来るだろうか。絢人が舞台に立てたのは、まがりなりにも平岡の恋人、いや愛人だったからかもしれない。舞台の真ん中に立てたのは、平岡の描くあの世界の住人だったからかもしれない。
あの頃、絢人は平岡のもとで舞台の道を生きて行くことを考えていた。この道を自分の将来に繋がる道にしたい、と。ようやく生きる意味を見つけた、と。自分もその世界では例えば賞賛とか、成功とか、現世の幸福とされるものを少しでも得られるかもしれない、と。
毎日深夜まで稽古をした。それは平岡とのあれこれに心煩わされることを恐れたためでもあったけれど、床がぎしぎしいうような古い稽古場で割れ目の入った鏡に自分の姿を映していると、自分がどこまでも行けるような気がするのだった。
そういえば、と絢人は思った。自分はあの時、あの狭い世界でまるで熱烈な恋をしていた。でも、芝居と平岡のどちらに恋をしていたのだろう。
美容院からの帰り道、そのポスターが駅の地下道にも貼ってあるのを絢人は見つけた。そして長い間、その前で佇んでいた。
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